伝記
アントワーヌ・ド・ブルゴーニュは、1384年8月21日に、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)とフランドル女伯マルグリット3世の息子として生まれた。ヴァロワ=ブルゴーニュ家で最初にブラバント公となった人物である。兄に無怖公ジャン、弟にヌヴェール伯およびルテル伯となるフィリップがいる。姉のマルグリットはヴィルヘルム2世の妻に、カトリーヌはオーストリア公レオポルト4世の妻に、妹のマリーはサヴォイア伯アメデオ8世の妻になった。1393年、父は彼にルテル伯領を分与した。1402年2月21日には、アラスで、サン=ポル伯ワレラン3世の娘ジャンヌ・ド・サン=ポルと結婚し、2人の息子をもうけた。ジャンヌは1406年とも1407年ともされる年に世を去った。
1406年、母方の祖母の姉であるブラバント女公ジャンヌが子を残さずに死ぬと、1405年の協定に基づき、アントワーヌはブラバント、ロティエ、リンブルフの3つの公国を継いだ。同時に、アントウェルペンの領主の地位も受け継いだ。ルテルは弟フィリップに譲った。ブラバント公となったアントワーヌは、行政の改革に意欲を見せた。領地の管理を行う者に毎年の会計の報告を義務づけ、会計院の役割を大きくした。三部会の抵抗を押して、司法のための評議院を設けた。ルクセンブルクに対する3度の遠征で傷んだ法秩序と財政を立て直し、領主たちの不正や横暴を罰した。1409年7月16日には、ブリュッセルで、ルクセンブルク女公エリーザベト・フォン・ゲルリッツと再婚した。この結婚によって、ルクセンブルク公国がブルゴーニュ家の勢力圏に入った。2人の間の子はいずれも幼くして亡くなった。アルマニャック派と兄の無怖公ジャンの争いでは、兄を支え、たびたび調停役も務めた。1411年にはアムの攻略に加わったが、イングランドが王国に侵攻すると、フランス王とアルマニャック派に近づいて、これに立ち向かった。
1415年、イングランド王ヘンリー5世がノルマンディーに上陸した。アントワーヌは、兄から軍に加わることを禁じる手紙を受け取ったが、それでも向かうことに決めた。ミサの最中に戦いが迫っていることを知ると、部下より先に駆け出した。アジャンクールの戦いには、始まったあとに到着したが、一刻も早く戦列に加わろうと焦り、急ごしらえの装備で身を固めた。侍従の鎧を借りて着込み、ラッパ手の旗を上着の代わりにまとって、わずかな家臣とともに、「ブラバント!ブラバント!」と叫びながら戦場へ突撃した。イングランド軍の戦列にたどり着くと、弓兵に馬から引きずり下ろされて捕虜となり、ヘンリー5世の命令による捕虜の処刑のなかで、喉を切られて殺された。イングランド側は、この間に合わせの上着のせいで、彼が身分の高い、身代金の取れる人物だとは気づいていなかったとされる。弟フィリップもこの戦いで戦死した。遺体は、ブリュッセル近郊のテルフューレンにある聖ヨハネ福音史家教会に葬られた。
アントワーヌの死後、前妻との間の2人の息子、ジャン4世(1403年生)とフィリップ・ド・サン=ポル(1404年生)が、相次いでブラバント公を継いだ。アントワーヌには庶子もおり、娘のアンヌは、ペドロ・デ・ペラルタと結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード・オブ・ノリッジ (1415年没)
- フィリップ・ド・ブルゴーニュ (1389-1415) (1415年没)
- ジャン1世 (アランソン公) (1415年没)
- ルイ・ド・ギュイエンヌ (1415年没)
- フィリパ・デ・レンカストレ (1415年没)
同じ地域に関係する人物
- トマス・オブ・ウッドストック (1397年没)
- シャルル=ルイ・アノン (1900年没)
- キルデリク3世 (フランク王) (750年代没)
- チャールズ・チャーチル (1764年没)
- Edward Gordon Williams (1915年没)