伝記
エーリヒ4世は、ザクセン=ラッツェブルク=ラウエンブルク公(在位1368年から1401年)、のちにザクセン=ラウエンブルク公(在位1401年から没するまで)となった人物である。1354年にラッツェブルクで生まれた。父はザクセン=ラウエンブルク公エーリヒ2世、母はアグネス・フォン・ホルシュタインである。父は生前から、早くも息子を政務に関与させていた。エーリヒ4世は1368年に父の跡を継いだ。
近隣のブレーメン大司教領、ハンブルク、シャウエンブルクとホルシュタイン=キールの伯領は、1363年からエーリヒ2世とその従兄弟アルブレヒト5世と争っていた。エーリヒ4世は1373年4月8日に、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公マグヌス2世の娘ゾフィーと結婚した。ゾフィーは1358年に生まれ、1416年5月28日に亡くなった。1378年、ブレーメン大司教アルブレヒト2世は、姪ゾフィーの夫であるエーリヒ4世と和解した。2人は和平条約に署名し、将来の争い、とくに大司教領に隣接するザクセン公領の飛び地ハーデルンの地での争いを、暴力によらずに解決することにした。
1392年から1398年にかけて、エーリヒ4世はシュテックニッツ運河を建設した。これはエルベ川とトラーヴェ川を経由して北海とバルト海を結ぶもので、分水嶺を横断するヨーロッパ最初の運河であり、バルト海沿岸地域との貿易にとって特に重要だった。1394年にハンブルクはリッツェビュッテル要塞を征服し、エルベ川河口を守る拠点とした。1400年、エーリヒ4世は、ハンブルクがこの地を在地の家臣のラッペから買い取ることを認めた。
1401年に、エーリヒ4世は、はとこのエーリヒ3世からザクセン=ベルゲドルフ=メルンを相続し、公領の2つの分領をザクセン=ラウエンブルクに再統合して、息子のエーリヒ5世とヨハン4世とともに統治した。ただし、メルン領は1359年に買い戻し契約でリューベックに売られており、ベルゲドルフ領、フィーアランデ、ザクセンヴァルトの半分、ゲーストハッハトなども、エーリヒ3世が1370年にリューベックに質入れしていた。メルンの買い戻しには総額2万6千リューベックマルクが必要だった。それでも1401年、エーリヒ4世は息子たちの支援を受けて、リューベックが領地を占領する前に、質入れされた地域を金銭の返済なしに強制的に占領し、リューベックはこれを黙認した。1407年には、ハーデルンの北部をハンブルクに質入れし、4年後には南部をブレーメンに質入れした。1411年には、息子たちとともに、ベーダーケーザー城の領地をブレーメン上院に質入れした。これらの権利は、疫病で1349年から1350年に没落したベーダーケーザーの騎士らから譲り受けたものだった。エーリヒ4世は1411年または1412年6月21日に亡くなった。
エーリヒ4世とゾフィーには、エーリヒ5世、ヨハン4世、ベルンハルト2世のほか、ヒルデスハイムの律修司祭アルブレヒト、カンミン司教からヒルデスハイム司教となったマグヌス、オットー、そして4人の娘が生まれた。娘の一人アグネスは、1399年3月23日にホルシュタイン=レンズブルク伯アルブレヒト2世と結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス・フォン・テープル (1410年(推定))
- マルティン1世 (アラゴン王) (1410年没)
- ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯) (1410年没)
- オワイン・グリンドゥール (1410年代没)
- スピネロ・アレティーノ (1410年)
同じ地域に関係する人物
- Helmut Berthold (2000年没)
- マリアンネ・バハマイヤー (1996年没)
- フリッツ・ティーデマン (2000年没)
- ヨハン・ファブリチウス (1808年没)
- カール・ゲンツケン (1957年没)