伝記
エドマンド・オブ・ラングリーは、中世イングランドの王族で、初代ヨーク公である。1341年6月5日に、国王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの5男(成人した息子としては4番目)として生まれた。兄にエドワード黒太子、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープ、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントがおり、弟にグロスター公トマス・オブ・ウッドストックがいる。中世の王子の多くがそうであったように、生地ハートフォードシャーのキングス・ラングリーにちなむ「エドマンド・オブ・ラングリー」というあだ名で呼ばれ、のちにヨーク家の始祖となった。
名づけ親のサリー伯が亡くなると、エドマンドはトレント川以北にあった伯の領地を与えられた。1359年には父王のフランス遠征に加わったが、成果は上がらなかった。1361年にガーター勲爵士となり、1362年、21歳でケンブリッジ伯に叙せられた。翌1363年には、父の策略で、フランドル伯ルイ2世の一人娘で相続人のマルグリットとの結婚が予定されたが、フランス王シャルル5世の妨害で無効となった。1369年には騎兵400人と弓兵400人を率い、ペンブルック伯らとともにブルターニュなどでの遠征に参加した。翌年には、ペンブルック伯とともにベル・ペルシュ要塞の救援に向かい、さらに黒太子に従ってリモージュの包囲と略奪に加わった。1375年にはマーチ伯とともにブレスト救援に船出したが、初めこそ成果を得たものの休戦となった。ゴーントより1歳下だったが、「能力が限られていた」ともいわれ、政治への関わりはゴーントより少なかった。
1376年6月12日にドーヴァー城の守備官兼五港長官に任じられ、1381年までその職にあった。1377年に甥のリチャード2世が即位すると、その補佐にあたる評議会の一員となった。1381年には、ポルトガル王フェルナンド1世と組んでカスティーリャを攻める遠征を率いたが、数か月のためらいの末に和平が結ばれ、不満をもつ兵を連れて帰国するほかなかった。1385年8月6日、ヨーク公に叙せられた。1392年に最初の妻イサベラが没すると、ジョウン・ホランドと再婚したが、子はなかった。1394年から95年にかけては、リチャード2世がアイルランドで戦っている間、王国の守護者を務め、1395年には議会を主宰した。
1399年夏、リチャード2世が再びアイルランドへ遠征すると、ヨーク公は留守を任された。6月下旬、追放されていた甥ヘンリー・ボリングブルックがヨークシャーのブリドリントンに上陸した。ヨーク公は軍を集めて抵抗しようとしたが、たちまち大勢の貴族がボリングブルックに寝返り、部隊は降伏した。急ぎ帰国したリチャード2世と合流したものの、リチャード2世が廃位され、ボリングブルックがヘンリー4世として即位すると、新しいランカスター朝に忠実であり続けた。同じ年の終わりごろには、短期間、西の辺境の守護者を務め、その後は公の生活から退いた。
1402年8月1日、61歳で世を去った。没地はキングス・ラングリーとされてきたが、リンカンシャーのエプワースだったともいわれる。公位は長男エドワードが継ぎ、遺体は同地の修道院に葬られた。のちに墓は1575年にオールセインツ教会へ移された。エドワードは1415年10月25日、アジャンクールの戦いで戦死した。次男リチャードと、アン・モーティマーとの結婚を通じて、ヨーク家は薔薇戦争でイングランド王位を主張することになる。エドマンドは兄弟のうち最後に亡くなり、最も長生きした。
同じ年に亡くなった人物
- ボンヌ・ド・ブルボン (1402年没)
- ムハンマド・シャー (1402年)
- ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ (1402年没)
- デイヴィッド・ステュアート (1402年)
- 建文帝 (1402年)
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