伝記
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは、初代ミラノ公である。1351年10月16日、パヴィアで、ガレアッツォ2世とビアンカ・ディ・サヴォイアの間に生まれ、1402年9月3日に没した。ヴィスコンティ家を権勢の頂点に導いた人物であり、のちにミラノ公となるジョヴァンニ・マリーアとフィリッポ・マリーアの父でもある。
1360年(1361年とも)、父の望みに従って、フランス王ジャン2世の娘イザベルと結婚した。父ガレアッツォ2世は、ヴィスコンティ家と欧州の王家との関係を固めようとしていた。イザベルは1372年か1373年に先立った。1378年に父が没すると、ジャンはミラノ公国の西半分の所領を受け継いだ。東半分は父の弟ベルナボが継ぎ、叔父と甥は、各地の領地をめぐって対立した。1380年10月2日、ジャンはベルナボの娘で従妹のカテリーナと結婚したが、舅でもある叔父との緊張は続いた。ベルナボは支配領で専横を繰り広げたため、1385年に、ジャンの手で捕らえられ、トレッツォ・スッラッダ城に幽閉された。ジャンは正式にミラノの全土を引き継いだ。この年の12月、ベルナボは毒殺されたとも、暗殺されたともいわれる。
以後ジャンは、ロンバルディア地方への勢力拡大に乗り出した。1387年には、パドヴァの領主と同盟を結び、ヴェローナとヴィチェンツァを手に入れたが、同盟相手を裏切ったために敵対が始まった。1388年にはパドヴァ、ベッルーノ、フェルトレを得た。ジャンは北イタリアで最も重要な支配者となり、とりわけフィレンツェにとって脅威となった。フィレンツェは、バイエルン公やフランスの使節らとともに同盟を作り、1389年に戦争が始まった。1391年6月25日のアレッサンドリア近郊の戦いでは、アルマニャック伯が負傷して死んだ。勝敗ははっきりしないまま戦争は終わったが、ジャンはパドヴァを返還せざるをえなかった。
1395年5月1日、ジャンは、ドイツ王ヴェンツェルに豊富な資金を献上して、帝国諸侯の身分を買い取り、ミラノ公に任じられて、正式にミラノ公国を成立させた。翌1396年にはパヴィア伯に、1397年にはロンバルディア公に任じられた。ジャンの治世は軍事を重んじたため、軍費による多大な出費から圧政を敷かざるをえなかった。だがミラノは当時、死の病と呼ばれたペストの被害が極度に少なかった。ジャン自身が文芸保護を進め、ミラノ大聖堂を建築するなど文化面の発展にも尽くしたため、ミラノは大いに発展した。傭兵を金で雇って兵農分離を行っていたことが、征服事業の成功の背景にあった。1397年には、フィレンツェが起こした二度目の同盟との戦いのなかで、ミラノ軍がマントヴァに入った。1399年にはピサとシエナを、1402年6月28日にはボローニャを征服した。
ロンバルディアをほぼ征服したなかで、フィレンツェだけは2度の戦いに敗れ、どうしても支配できなかった。ジャンは「カエサルの再来」を自認し、フィレンツェ征服後にイタリア王位に即こうとして、王冠と錫を用意していたといわれる。1402年に3度目の遠征を計画したが、その前に、ペストを避けて身を寄せていたメレニャーノ城で急死した。遺体はジャンが建てさせたパヴィアの修道院に葬られ、心臓はパヴィアのサン・ミケーレ教会に、内臓はヴィエンヌの教会に納められた。死後、領土は分割され、長男ジョヴァンニ・マリーアが最も古い領地を、次男フィリッポ・マリーアがパヴィア伯領などを受けた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム (ユーリヒ=ゲルデルン公) (1402年)
- デイヴィッド・ステュアート (1402年)
- 建文帝 (1402年)
- ムハンマド・シャー (1402年)
- エレオノーラ・ダルボレア (1402年)
同じ地域に関係する人物
- ジュゼッペ・ベルティーニ (1898年没)
- ジャンロベルト・カサレッジオ (2016年没)
- フランチェスコ・ダ・ミラノ (1543年没)
- ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ (1775年没)
- Leandro Remondini (1979年没)