伝記
ボンヌ・ド・ブルボンは、サヴォイア伯アメデーオ6世の妃で、「偉大な婦人」とも呼ばれた。1341年に生まれ(1340年や1342年とも)、1402年1月19日に没した。ブルボン公ピエール1世とイザベル・ド・ヴァロワの娘で、フランス王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの妹にあたる。夫が不在だった1366年から1367年と1383年、さらに孫アメデーオ8世が幼かった1391年から1395年に、サヴォイア伯領の摂政を務めた。
ボンヌは、1355年のパリ条約の一環として、サヴォイア伯アメデーオ6世と婚約した。当時のフランスの王太子でのちのシャルル5世は、ボンヌの姉ジャンヌと結婚していた。アメデーオ6世は、ブルゴーニュ公の娘との婚約が問題となっており、国王は、ブルゴーニュがサヴォイアの影響を受けるのを望まなかった。この条約には、年間3,000フローリンのボンヌの持参金も含まれていた。1355年8月、パリで代理人を立てて結婚の手続きがなされ、ボンヌは馬でサヴォイアへ向かった。9月にシャンベリで夫と対面して結婚したとき、ボンヌは13歳から15歳、アメデーオ6世は21歳だったとされる。しかし結婚の直後に、アメデーオ6世は百年戦争に再び参戦するため、軍に戻らなければならなかった。
1366年、アメデーオ6世は十字軍に参加するためブルガリアへ向かうとき、ボンヌを自分の不在の間の摂政に指名し、枢密院から助言を受けるようにさせた。1367年、アメデーオ6世の又従兄弟であるピエモンテ領主ジャコモが死去すると、ジャコモの長男フィリッポ2世と、後妻マルグリット・ド・ボージューとの間で、遺産をめぐる論争が起こった。マルグリットは自分の幼い息子アメデーオとルドヴィーコのために争っていた。摂政のボンヌにできたのは、戦いを防ぐことだけで、解決はできなかった。フィリッポ2世はヴェネツィアにいるアメデーオ6世を訪ねて、解決を試みることとなった。1371年には、サヴォイア伯の宮廷を移すため、リペイユに城を建設させた。新しい城には、レマン湖を見渡せる大きな窓があった。ボンヌはアルプスの湖を好み、音楽の保護者でもあり、ハープが上手なことで知られていた。1382年7月、夫のイタリア遠征の資金が尽きようとしていたため、自分の宝石を400フローリン以上で売って資金を提供した。
1383年に夫アメデーオ6世が死去した。アメデーオ6世は、息子アメデーオ7世がすでに20代前半だったにもかかわらず、遺言でボンヌにサヴォイア伯領の支配権を与えていた。ボンヌは、ルイ・ド・コソネーが率いる枢密院の支えを受け、息子の名のもとにサヴォイアを統治した。枢密院が恐れていたことの一つは、フランス王子たちの影響力が拡大することだったという。ベリー公ジャン1世は娘ボンヌをアメデーオ7世と結婚させ、のちに2人の間に生まれたアメデーオ8世が、サヴォイアを治めることになる。アメデーオ8世は、ブルゴーニュ公フィリップ2世の娘マリーとも婚約した。
1391年に息子アメデーオ7世が破傷風で死去し、ボンヌは孫の摂政となった。しかし1395年、アメデーオ7世の医師が、ボンヌがアメデーオ7世の暗殺を命じたとして訴えたことで、その影響力は終わった。ベリー公とブルゴーニュ公も、枢密院の数名を殺人に加担したとして訴えた。最終的にボンヌは摂政の座を退き、孫アメデーオ8世の世話からも外された。1402年、マコン城で世を去った。
同じ年に亡くなった人物
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- デイヴィッド・ステュアート (1402年)
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