HISTORICAL PERSON · 1956年没

溝口健二

日本の映画監督。『祇園の姉妹』『雨月物語』『山椒大夫』など約90本を監督し、犠牲となる女性をリアルに描いた。ヴェネツィア国際映画祭で3年連続受賞した。

生涯
1956年没
死亡地
日本(京都府 / 京都市)
出生地
日本(東京都)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

溝口健二は、1898年5月16日に東京府東京市本郷区湯島新花町に生まれた映画監督である。『祇園の姉妹』『残菊物語』『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』など約90本を監督した。ワンシーン・ワンショットや移動撮影を用いた映像表現と完全主義的な演出で、社会や男性の犠牲となる女性の姿をリアルに描いたことで知られ、1950年代にはヴェネツィア国際映画祭で作品が3年連続で受賞し、フランスのヌーヴェルヴァーグの監督らにも影響を与えた。

父善太郎は大工とも屋根葺職人ともいわれ、日露戦争を当て込んで軍隊用の雨合羽の製造を始めたが、売り出す時に戦争が終わって失敗した。借財がかさんで家は差し押さえられ、一家は1905年に浅草へ移って貧窮のどん底生活を送り、7歳上の姉の寿々は口減らしのため養女に出された。小学校を卒業した後は中学進学を望んだが、父に反対された。リウマチで約1年闘病し、一家を貧困に陥れた父を憎むようになった。やがて寿々は芸者となり、客の子爵に落籍されて、その仕送りが一家の暮らしを支えた。1914年12月には苦労し続けた母が亡くなり、父への反発はいっそう強まった。

絵が好きで、1913年に浴衣の図案屋に弟子入りし、のちに模様絵師のもとでも修業した。1916年には黒田清輝が主宰する洋画研究所に入って洋画の基礎を学び、そこで関わったオペラの背景画をきっかけに浅草オペラに通い詰めた。寄席で講談や落語に親しみ、トルストイやゾラなどの外国文学、泉鏡花や永井荷風らの小説を読み漁った。名古屋の陶器会社には入社翌日に東京へ舞い戻り、神戸の新聞社の広告図案係も1年で辞め、20歳を過ぎても定職がないまま、浅草でオペラや活動写真を見て日々を過ごした。

1920年、友人を通じて知り合った俳優の手引きで日活向島撮影所に出入りし、同年5月に入社した。当初は俳優を志望したが、監督助手として雑務もこなし、1922年に田中栄三監督の下で助監督についてその能力を認められた。所属俳優や監督が退社する騒動でスタッフが手薄になるなか、田中の推挙で監督に昇進し、1923年2月、『愛に甦る日』で監督デビューした。同年9月の関東大震災で自宅を焼失し、震災後の市内の実況フィルムや、震災を題材にした劇映画『廃墟の中』を撮影した。向島撮影所の閉鎖で京都の大将軍撮影所に移ったが、作品のほとんどが不評でスランプの時期といわれた。1925年には同棲していた女性に剃刀で背中を斬りつけられる騒動を起こし、3か月の謹慎処分を受けた。

翌1926年の『紙人形春の囁き』などでスランプを脱し、1927年にダンサーの嵯峨千恵子と結婚した。1933年の『瀧の白糸』はサイレント期のピークとなり、1936年の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』で批評家から高い評価を受けて巨匠と呼ばれるようになった。キネマ旬報のベスト・テンでは『祇園の姉妹』が1位に選ばれた。1937年には日本映画監督協会の2代目会長に就任した。1939年の『残菊物語』はベスト・テン2位となり、同年12月には内閣の映画委員に任命された。そして、1940年に松竹と契約し、1941年には『元禄忠臣蔵』を撮影した。1956年8月24日に没した。

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