HISTORICAL PERSON · 1398年没

ループレヒト2世 (プファルツ選帝侯)

プファルツ選帝侯。1390年に選帝侯位を継ぎ、1391年にユダヤ人を追放して没収した財産をハイデルベルク大学へ寄贈した。1395年に選帝侯領の統一を目的とする法を発布し、ネッカーゲミュントを併合した。

生涯
1398年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / アンベルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(アンベルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ループレヒト2世は、1325年5月12日にアンベルクで生まれたプファルツ選帝侯である。ヴィッテルスバッハ家の出で、厳格伯、あるいは生真面目伯とも呼ばれた。父はライン宮中伯アドルフ、母はイルメンガルト・フォン・エッティンゲンで、その長男であった。

1327年、一族の相続をめぐる争いのなかで父が亡くなったとき、彼はまだ幼かった。ライン宮中伯の地位にあった叔父の皇帝ルートヴィヒ4世は、孤児になった甥たちをナッサウ伯ヨハンの後見のもとに置いた。1329年のパヴィア条約で、ルートヴィヒ4世と、亡き父アドルフの兄弟であるルドルフ2世、ループレヒト1世との間に取り決めが結ばれると、4歳だったループレヒト2世は父に代わってこの分割に加わった。1334年には叔父ループレヒト1世と、領地を分ける場合は共同の所有者であり管理者となることを約した。

1345年にシチリア王ピエトロ2世の娘ベアトリクスと結婚した(1348年とする説もある)。夫妻には4男3女が生まれ、娘のアンナはベルク公ヴィルヘルムに嫁いだ。叔父とは1353年の終わりごろまでともに領地を治めたが、ルドルフ2世の死後にあらためて領地が分けられると、叔父が大部分を得て、彼が受け取ったのはリンデンフェルス、アルツァイ、シュトロムベルクといった都市とシュタールエック城などの小さな部分であった。1355年には、叔父に男子が生まれない場合は彼が跡を継ぐと決められ、1357年にこれが確認された。1368年には、領土の大部分を今後は分けないことが両者で合意され、彼は共同統治者となった。叔父がハイデルベルク大学を創設する際にはこれに加わり、1386年の同大学の歴史的な印章には叔父とともに描かれた。

1390年にループレヒト1世が亡くなると、彼はローマ王ヴェンツェルの承認のもとで選帝侯となった。1391年には、ユダヤ人を異端の罪で領内から追放し、売春婦も追放して、没収した財産をハイデルベルク大学に寄贈した。1395年には、選帝侯領の統一を目的とする「ループレヒト憲章」を発布し、帝国自由都市ネッカーゲミュントを併合した。1398年1月6日にアンベルクで亡くなり、ハイデルベルクのシトー会のシェーナウ修道院に葬られた。選帝侯位は三男のループレヒト3世が継ぎ、のちにローマ王として即位した。

彼は妻に先立たれてから30年にわたって再婚しなかった。その間に、私生児の娘エルザ・フォン・シュトロムベルクがもうけられ、彼女は1392年からヴォルムスのドミニコ会の女子修道院で暮らした。

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