伝記
カール(小カール、インゲルハイムのカール)は、772年か773年ごろに生まれ811年12月4日に没したフランク王である。カール大帝と2番目の妃ヒルデガルトの最初の息子で、大帝の次男にあたる。イタリア王ピピンと皇帝ルートヴィヒ1世は同母弟である。異母兄に傴僂のピピンがいた。
774年、父がランゴバルド王国の都パヴィアを包囲していたとき、ヒルデガルトと息子たちは陣営に呼び寄せられた。大帝は6月までに都市を落とし、フランク王に加えてランゴバルド王となった。その後の幼少期の記録は少ないが、大帝は子供たち全員に自由学芸の教育を受けさせ、息子たちは乗馬、戦闘、狩猟の訓練も受けたことが知られている。781年、大帝夫妻は弟のカールマンとルートヴィヒをローマへ連れて行き、教皇ハドリアヌス1世が洗礼を授けた。カールマンはピピンと改名してランゴバルド王に、ルートヴィヒはアクィタニア王とされたが、カールと異母兄ピピンはフランク王国に残された。
カールは成人した784年にザクセン戦争でヴェストファーレンへ軍を率い、これが最初の指揮であった。以後も父の代理として目立つ存在となり、ザクセンでの軍の指揮を任され続けた。789年ごろ、大帝はカールに「セーヌ川以西の王国」、のちのメーヌ公国にあたる地域の統治を与え、790年には王の称号も授けたという。同じころ、マーシア王オファの娘エルフレダとカールとの縁談が持ち上がった。オファは同時に、自分の息子エグフリスとカールの妹ベルタとの結婚も求めた。大帝はこれに腹を立てて拒み、カールの縁談も破談とし、イングランド商人を帝国の港から締め出した。この封鎖は3年続いたともいわれ、ヨークのアルクインの仲介による条約で解かれた。796年には、大帝とオファの間で、知られている限りイギリス史上最初の通商条約が結ばれた。
カールと異母兄ピピンの間には、後継をめぐる不和があったとみられる。ピピンは大帝とヒミルトルードの子で、その関係の位置づけは明確でなく、780年代にはピピンは庶出と見なされるようになっていた。カールが父の代理として軍を率いたのに対し、ピピンにはそうした指揮が与えられなかった。メーヌの統治を得たのち、カールは年長のピピンを差し置いて「長子」と呼ばれ始めた。792年、ピピンはバイエルンの貴族らと共謀し、レーゲンスブルクに集まった大帝、カール、ピピン、ルートヴィヒを暗殺して自ら王になろうとした。陰謀は露見し、ピピンは修道院に入れられ、共謀者の多くが処刑された。
800年、カールは父とともにデーン人の海賊が襲っていたネウストリアの防備を視察し、続いてローマへ赴いた。12月25日、教皇レオ3世は大帝に皇帝の冠を授け、カールにも王として塗油した。804年には、教皇レオ3世の最後のフランク王国訪問に際し、教皇を北へ送る役を任された。805年と806年には、ボヘミア人、ソルブ人などスラヴ系の諸集団に対する遠征で成功を収めた。806年にはヴァイセンフェルス付近で、ソルブ人の公とされるスラヴ人のクニャージ、ヌッシトと戦い、これを討ち取った。同じ806年、大帝は帝国の相続計画を定めた。カールは最も信頼された長子として最大の取り分を与えられ、フランキア本土、ザクセン、ノルトガウ、アレマンニアの一部を継ぐことになった。しかし811年12月4日、カールはバイエルンで卒中に襲われて死去した。子はなかった。父より先に没し、弟ピピンも早く亡くなったため、帝国の全土は弟ルートヴィヒの手に渡った。フランスの物語に登場するシャルロのモデルになったともされる。
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