伝記
アブー・バクル・シャーは、生年は不明で、1390年ごろに世を去った、北インドを支配したトゥグルク朝の第5代君主である。1389年から1390年まで在位した。第4代君主フィールーズ・シャーの孫にあたり、父はザファル・ハーンである。
1389年、先代のギヤースッディーン・トゥグルク2世が部下の謀反で殺されると、アブー・バクルが跡を継いだ。ギヤースッディーンは側近の首長や高官に厳しく当たり、自分の兄弟を投獄したため、アブー・バクルは身の危険を感じ、副宰相のマリク・ルクヌッディーンらとともに立ち上がって彼を殺したともいわれる。即位したアブー・バクルは、マリク・ルクヌッディーンを宰相に任じた。しかし、やがて宰相が反乱を企てていると知り、先手を打って宰相とその協力者を殺した。こうしてデリーを握り、戦象や歴代の君主の宝庫も支配下に置いた。
しかし、叔父のムハンマド・シャーが王位を狙って争いを始めた。ムハンマドは、フィールーズ・シャーの存命中に逃亡していた人物で、サマーナの首長たちがその地の総督を殺し、首を北方のナガルコートにいたムハンマドに送ると、サマーナで王位を宣言した。デリーの首長の一部もアブー・バクルを離れてムハンマドに加わり、軍は数万の騎兵と歩兵に膨れ上がった。アブー・バクルが祖父フィールーズの奴隷たちの支持を得て戦象を握っていたのに対し、ムハンマドは軍司令官とその部隊の支持を得て、地方の大部分を押さえていた。アブー・バクルはフィーローズアーバードで迎え撃ち、ムハンマドを破った。ムハンマドは同じ年にもう一度攻めてきたが、再び敗れた。1390年にはパーニーパットでも、アブー・バクルが送った軍が、デリーの周辺を荒らした首長の軍を破った。ムハンマドが三度目に攻めたときには、一隊が別の道からデリーに入り、バダーウーン門に火をつけて城内へ進んだが、引き返したアブー・バクルは、門に残された守備兵を討って城に入り、ムハンマドを逃走させた。アブー・バクルは捕らえたムハンマドの首長を何人か殺した。
その後、アブー・バクルは側近の一人と仲違いし、一部の首長が背いて、ひそかにムハンマドへ手紙を送った。1390年にアブー・バクルを支持していた奴隷が二派に分裂し、一方がムハンマドをデリーに招いたともいわれる。アブー・バクルはデリーを出て、コートラのバハードゥル・ナーヒルに助けを求めた。入れ違いにムハンマドがデリーに入って王位につき、1390年8月にアブー・バクルは敗れた。まもなくアブー・バクルとバハードゥルは捕らえられた。ムハンマドはバハードゥルを許したが、アブー・バクルはメーラトの城に幽閉され、まもなく死去した。在位は1年半ほどであった。
同じ年に亡くなった人物
- ミカエル・パナレトス (1390年)
- ロバート2世 (スコットランド王) (1390年没)
- Assar Tabrizi (1390年)
- ジャン1世 (ロレーヌ公) (1390年没)
- バハー・アッディーン・ナクシュバンド (1390年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ムイーヌッディーン・チシュティー (1236年没)
- ガヤトリ・デヴィ (2009年没)
- プラタープ・シング (メーワール王) (1597年没)
- マーガ (800年没)
- ジャイ・シング2世 (1743年没)