伝記
ロバート2世は、1316年にスコットランドで生まれた。父は第6代スコットランド執事長ウォルター・ステュアート、母はロバート1世の娘マージョリーである。母は出産の後まもなく、あるいは出産の際に世を去ったとされ、父も1326年に死去したため、ロバートは10歳で執事長の地位を継いだ。ステュアート家は初代のウォルター・フィッツアラン以来、王室執事長を世襲する家柄で、ロバートはビュート、クライド川流域、レンフルーにある一族の所領で、ゲール系貴族としての養育を受けた。ロバートは王位継承の順位にも関わった。ロバート1世の弟エドワード・ブルースが1318年に戦死すると、議会は世継ぎの男子がないまま王が没した場合にはマージョリーの息子ロバートを継承者と定めた。しかし1324年に王の息子デイヴィッドが生まれてこの地位は失効し、1326年の議会でデイヴィッドが子なく没した場合の継承順位に復し、アーガイルやロクスバラシャー、ロージアンの土地も与えられた。1329年にデイヴィッドがデイヴィッド2世として即位した。
若いロバートは、イングランドの支援を受けたエドワード・ベイリャルとの戦いに加わった。ベイリャルは1332年8月にダプリン・ムーアでブルース派に大きな打撃を与えていた。1332年12月には、16歳のロバートがサー・アーチボルド・ダグラスとともにアナンの戦いでベイリャルを破り、スコットランドから追い払った。ベイリャルは翌年にイングランド王エドワード3世とともに戻り、1333年のハリドン・ヒルの戦いでダグラスを破る。ハリドン・ヒルで戦ったロバートは、叔父のデイヴィッドとともにダンバートン城に避難した。デイヴィッドが1334年にフランスへ逃れると、議会はロバートを共同の守護者に任じた。1335年にロバートがベイリャルに服従したため一度その任を解かれたが、1338年に復帰し、1341年6月にデイヴィッドが帰国するまで続いた。1346年のネヴィルズ・クロスの戦いではデイヴィッドに従ったが、王が捕らえられた一方で、ロバートは戦場から逃れたとされる。王は1357年10月に身代金が支払われるまで囚われの身となった。ロバートは1363年にデイヴィッドに反乱を起こしたが、継承権を奪うとの脅しを受けて服従した。
私生活では、1340年代後半にサー・アダム・ミュアの娘エリザベスと結婚し、のちに嫡出とされた子に、後のロバート3世となるジョン、ファイフ伯ウォルター、オールバニ公ロバート、「バドノッホの狼」と呼ばれたバカン伯アレグザンダーの4人の息子がいた。1355年にはロス伯ヒューの娘ユーフェミアと再婚し、2男2女を儲けた。庶子もあり、その一人トマスはセント・アンドルーズ司教となった。
1371年にデイヴィッド2世が子のないまま亡くなると、五十代半ばのロバートが王位に就き、ステュアート朝の初代国王となった。国境地帯の有力者たちはイングランド支配下の地域を攻め続け、1384年までに占領地の大半を奪い返した。ただし即位時のロバートは健康状態が非常に悪く、ほとんど盲目で「霞み目爺さん」とまで呼ばれた。先王の身代金の支払いやダグラス家とパーシー家の抗争といった問題を抱えるなか、老齢の王はほとんど業績を残せず、息子たちが実権を握った。1384年11月の政変で国の統治は長男ジョンの手に渡り、1388年からはジョンの弟ロバートが掌握した。ロバート2世は1390年にダンドナルド城で没し、スクーン修道院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- サアドッディーン・タフターザーニー (1390年没)
- ロレンツォ・ヴェネツィアーノ (1390年(推定))
- アルティキエーロ (1390年)
- ミカエル・パナレトス (1390年)
- ループレヒト1世 (プファルツ選帝侯) (1390年没)
同じ地域に関係する人物
- トーマス・ブリスベーン (1860年没)
- ウィリアム・トムソン (1907年没)