伝記
ジャン1世は、1346年2月に生まれ、1390年9月に没したロレーヌ公である。1346年から1390年まで在位した。父ラウルはクレシーの戦いで戦死し、生後6か月で公位を継いだ。母はマリー・ド・シャティヨン=ブロワである。没日は9月22日とも23日ともいわれ、パリで亡くなった。
幼い間は、母マリーとヴュルテンベルク伯エーバーハルト3世が摂政を務めた。1353年12月、ジャンは神聖ローマ皇帝カール4世にロレーヌ公位について臣下の礼をとり、カール4世からモーゼル地方の帝国中将に任命された。1354年には、フランス王ジャン2世が、まだ成人していないジャンに、公国を統治することを許す特権を与えた。1356年には、ドイツ騎士団とともにリトアニアに対する十字軍に加わった。同年9月19日にはポワティエの戦いに加わり、数千人のフランス兵がイングランドの長弓兵に倒れるなかで、ジャンはイングランド軍の捕虜となったが、生還してまた戦った。のちに王太子シャルルの側について、パリのエティエンヌ・マルセルの反乱の鎮圧に力を貸した。摂政は1360年まで続いた。1361年には、ヴュルテンベルク伯エーバーハルト2世の娘ゾフィーと結婚した。
1364年5月19日には、ランスで行われたシャルルの戴冠式に出席し、ロレーヌが過去1世紀にわたって築いてきたフランスとの結びつきを強めた。同年、伯父シャルル・ド・ブロワを助けるため、ブルターニュ継承戦争に加わった。1364年9月29日のオーレの戦いで、ジャン・ド・モンフォールがブルターニュ公として認められ、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ジャンは捕虜となった。1365年には、再びリトアニアに対する十字軍に加わった。ゾフィーとの間には、1365年生まれのシャルル2世、1369年生まれのフェリー1世、娘イザベルが生まれたが、ゾフィー自身は1369年に没した。1371年には、メスの町を3か月にわたって包囲したが、落とせず、周辺の地方を略奪して荒らした。のちにマルグリット・ド・シニーと再婚したが、彼女は1372年に没し、オルヴァル修道院に葬られた。
ジャンは、ブレティニーの和約で失われた領地を取り戻そうとするシャルル5世とシャルル6世を、支援し続けた。しかし晩年には、フランス宮廷から距離を置くようになった。ジャンの領地を傭兵団が荒らしたこと、また、帝国の家臣であるジャンと、その家臣との関係をめぐって、王の役人が争いを裁こうとしたことが、その一因であった。結局、ブルゴーニュ公フィリップ2世と親しく交わるようになった。それでもジャンは、ヌフシャトーの市民から権力の乱用を訴えられ、これに抗弁するためパリへ出向いていたさなか、1390年に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- フアン1世 (カスティーリャ王) (1390年没)
- アレクシオス3世 (1390年)
- ロレンツォ・ヴェネツィアーノ (1390年(推定))
- キラツァ・マリア (1390年没)
- ザクセンのアルベルト (1390年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ・ブランヴィル (1850年没)
- ジャック・ドゥヴァル (1972年没)
- アラン・ペールフィット (1999年没)
- ピエール・ユラン (1841年没)
- フランソワ・ミッテラン (1996年没)