伝記
ヨハネス6世カンタクゼノスは、1292年に生まれ、1383年6月15日に没した東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝である。在位は1347年から1354年で、政治家、歴史家、修道士でもあった。修道名はヨアサフという。生家のカンタクゼノス家は、11世紀末に歴史に登場する帝国の名門で、祖父とされるミカエル・カンタクゼノスはペロポネソス半島で対アカイア公国戦役に従事し、父もペロポネソスの行政官を務めた。父はヨハネスの誕生を前に、1294年頃に死去している。青年期にエイレーネー・アサニナを妻に迎えた。
生涯は、彼自身が著した『歴史』によって知られる。世に出たのは1320年、共同皇帝アンドロニコス3世が起こしたスキャンダルと、その後の帝位継承者変更に伴う争乱の中であった。顧問官の職にあった彼は、同世代の友人であるアンドロニコス3世の陣営に加わり、首都では政治の刷新と減税を宣伝して支持を集め、トラキア地方の行政官職を買って勢力地の確保に努めた。1321年から内乱となったが、1328年に孫のアンドロニコス3世が祖父に勝って争いは終わった。カンタクゼノスは帝国軍総司令官に昇進して、その統治を支えた。エピロス専制公国の併合は、1335年から1340年にかけて彼の手腕で成し遂げられた。
1341年にアンドロニコス3世が没し、息子のヨハネス5世が10歳で即位すると、摂政の座をめぐる争いが起きた。カンタクゼノスは自らが務めるものと信じていたが、皇太后アンナは反対し、彼の部下だったアポカウコスと結んで朝敵と宣告した。彼はトラキアの都市ディディモティコンで皇帝を名のったが、ヨハネス5世を廃さず共同で支える形をとった。当初は不利であった。テッサロニキでは、貴族層を憎む市民を基盤とする熱心党が反乱を起こして、友人の行政官を追放し、静寂主義を推す彼とは対立した。窮地に陥った彼は、セルビア王ステファン・ドゥシャンの支援を求めたが、関係は悪化し、代わってオスマン朝の君主オルハンの支援を取りつけ、娘テオドラを嫁がせた。こうして反撃に成功し、1347年2月8日に首都コンスタンティノポリスに入城して正式に戴冠した。娘ヘレネをヨハネス5世に嫁がせ、10年の期限付きで、共同統治の形をとりながら実権を握った。
しかし帝国はこの六年間で荒廃していた。バルカン西部の諸州の大半はドゥシャンの手に渡り、ジェノヴァ人とも、キオス島をめぐる深刻な対立を抱えていた。艦隊を編成して挑んだが、1349年にジェノヴァ海軍に完敗した。ヴェネツィアなどと組んだ1352年の海戦も決着がつかず、キオス島は帝国から失われた。同じ年にヨハネス5世がセルビアなどと同盟して反乱を起こすと、オルハンの長子スレイマンの騎兵の力で勝利したが、1353年には長子マタイオスを共同皇帝に立てたため、簒奪と非難された。しかもトルコ人は、1354年にカリポリスを占拠して、ヨーロッパ側に最初の拠点を得てしまった。ヨハネス5世が首都に戻ると、12月9日、カンタクゼノスは妻エイレーネーとともに隠退して修道院に入った。
その後は、次子マヌエルが治めるモレアス専制公領に赴き、残る生涯を主として神学関係の著述に捧げた。1383年6月15日にミストラスで没した。オスマン朝のバルカン進出のきっかけを作った人物として、帝国滅亡の責任が問われることが多い。『歴史』は正確で詳細ではあるが、自分と友人を最大限に称賛し、敵を中傷する点で、公正性に問題があるとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ベアトリス・ド・ブルボン (1383年没)
- ハインリヒ3世 (メクレンブルク公) (1383年没)
- アメデーオ6世・ディ・サヴォイア (1383年没)
- イザベル・ド・ヴァロワ (ブルボン公妃) (1383年没)
- ラドゥ1世 (1383年)
同じ地域に関係する人物
- ピュロス (紀元前272年没)
- フルウィア (マルクス・アントニウスの妻) (紀元前40年没)
- Eupompus (紀元前400)
- アゲシポリス3世 (紀元前183年没)
- アゲシポリス2世 (紀元前369年没)