伝記
ベアトリス・ド・ブルボンは、ボヘミア王ヨハンの2度目の王妃となったフランスの貴族の女性である。チェコ語名はベアトリクス・ボウルボンスカー、ドイツ語名はベアトリクス・フォン・ブルボンという。1320年に、ブルボン公ルイ1世と、エノー伯ジャン1世の娘マリー・ダヴェーヌの末娘として生まれた。ルイ1世はクレルモン伯、ラ・マルシュ伯でもあり、ベアトリスは聖王ルイ9世の男系の子孫にあたる。
1321年5月、ターラント公フィリッポ1世の次男で、ルーマニアの専制公であるフィリッポとの婚約が決まった。だが、婚約は1327年にフィリッポがアラゴン王ハイメ2世の娘ヴィオランテと結婚することを選んだため、破談となった。その後、ボヘミアとの縁談が始まり、フランス王フィリップ6世は、ボヘミアとの結びつきを強めたいと考えて、この結婚を取りもった。1334年12月、14歳のベアトリスは、ヴァンセンヌ城でヨハンと結婚した。ヨハンは、先妻エリシュカ(ボヘミア王ヴァーツラフ2世の娘)と死別していた。2人は禁じられた近さの親族であったため、教皇ベネディクトゥス12世が1335年1月9日にアヴィニョンで特免を与えた。結婚契約には、この結婚で男子が生まれた場合、ヨハンの父方の遺産であるルクセンブルク伯領とそれに付属する土地は、その子のものになると定められていた。
1335年7月にプラハに着き、実家のクレルモン伯領から年4,000リーヴルの収入を持参した。1337年2月25日、プラハで長男ヴェンツェルを産んだ。同年5月18日にプラハ城で戴冠したが、通常の華やかさに欠ける式だった。戴冠の直後の6月には、息子をボヘミアに残してルクセンブルクに移り、その後はボヘミア王国をめったに訪れなかった。1342年に父ルイ1世が亡くなったとき、クレイユの町を担保とする1,000リーヴルを受け取った。子は、ヴェンツェルのみとも、娘もいたとも伝わる。
1346年8月26日、ヨハンがクレシーの戦いで戦死し、ベアトリスは王妃でなくなった。義理の息子の新王カールは、結婚契約の取り決めを確認した。ベアトリスは寡婦領として、エノー伯領の土地と年4,000リーヴルの収入、アルロン、マルヴィル、ダンヴィレールの町を終身で受け取り、収入は息子の教育にも使われた。カールはクトナー・ホラの鉱山からの収入と動産もすべて彼女に残した。1347年ごろ、ダンヴィレールで、グランセー領主ウード2世と再婚したが、王太后の称号は保ち、この結婚に子は生まれなかった。まもなく、息子ヴェンツェルと、15歳年上でブラバント公ジャン3世の娘である寡婦のジャンヌの縁談をまとめ、結婚は1351年5月17日にダンヴィレールで行われた。ヴェンツェルはのちにルクセンブルク公とブラバント公となったが、1383年に亡くなった。
ベアトリスは1383年12月に亡くなった。死去は23日とも27日ともされる。息子のヴェンツェルと義理の子どもたちをすべて見送った。パリのジャコバン修道院の教会に葬られ、その像は現在サン・ドニ大聖堂にある。再婚相手のウード2世は、彼女より6年長く生きた。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス6世カンタクゼノス (1383年没)
- ラドゥ1世 (1383年)
- マテオス・カンダクジノス (1383年没)
- ジャック・デ・ボー (1383年没)
- ヴェンツェル1世 (ルクセンブルク公) (1383年没)
同じ地域に関係する人物
- フランツ・マルク (1916年没)
- ギュンター・フォン・クルーゲ (1944年没)
- アントワーヌ (ロレーヌ公) (1544年没)
- エリザベート・シャルロット・ドルレアン (1744年没)
- ゴットフリート3世 (ロートリンゲン公) (1069年没)