HISTORICAL PERSON · 1383年没

フェルナンド1世 (ポルトガル王)

第9代ポルトガル王で、美男王と呼ばれた。カスティーリャ王位継承権を主張してエンリケ2世と戦ったが敗れ、娘ベアトリスをカスティーリャ王に嫁がせた。嫡出男子なく没し、庶弟ジョアンがアヴィス朝を興した。

生涯
1383年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / リスボン)
出生地
ポルトガル共和国(サンタレン)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

フェルナンド1世は、第9代のポルトガル国王で、ブルゴーニュ朝の最後の王である。「美男王」とも「気まぐれ王」とも呼ばれる。1345年10月31日にコインブラで生まれた。父は国王ペドロ1世、母は2度目の王妃コンスタンサ・マヌエルで、母は生後3週間で亡くなった。兄ルイスは生後1週間で亡くなり、姉にマリアがいた。年代記作者フェルナン・ロペスは、彼が「女を好み、女に近づく人」で、狩りに執着し、宮廷の暮らしを退屈に感じて、貴婦人や野ウサギやハトを追い回すことで気を紛らせたと記している。

1367年に父の死を受けて、21歳で王位に就いた。平和で国庫が満ちた王国を受け継いだ。1369年、いとこのカスティーリャ王ペドロ1世が、異母弟のエンリケ・デ・トラスタマラに殺され、エンリケがエンリケ2世として即位した。フェルナンドは、カスティーリャ王サンチョ4世の曾孫であることを根拠に王位継承権を主張し、カスティーリャ貴族の支持も得てガリシアの主要な都市で王として歓呼された。アラゴン王ペドロ4世と同盟を結び、その王女レオノールと婚約したが、ガリシアに攻め込むとカスティーリャ軍に反撃され、海路でポルトに引き上げた。教皇グレゴリウス11世の仲裁で、1371年3月31日に講和条約を結んだ。この条約でカスティーリャ王女レオノールと婚約し、アラゴン王女との婚約は破棄した。

講和の後、フェルナンドは平民出身の人妻レオノール・テレスに思いを寄せ、離婚させて、1372年5月15日にレサ・ド・バリオ修道院で結婚した。これに反対してリスボンで暴動が起きたが、鎮圧されて首謀者は処刑された。王妃は人々の不興を買った。同じ1372年、彼は、カスティーリャ王女コンスタンサを妻にしていたイングランド王子ジョン・オブ・ゴーントと同盟を結び、ジョンがカスティーリャの王位を狙うのを支えた。エンリケ2世に海と陸の両方からリスボンを囲まれたが、市民はよく耐え、翌1373年に講和条約を結んで兵を引き上げた。1373年から1375年には、リスボンの新しい城壁が築かれ、ポルトやエヴォラでも城壁が造られた。

1378年に教会大分裂が始まると、ポルトガルはローマ教皇とアヴィニョン教皇のあいだを揺れ動いた。1380年にはイングランドとエストレモス条約を結んだ。1381年に再びジョン・オブ・ゴーントと同盟を結んでカスティーリャへ攻め込んだが、再びカスティーリャ軍に攻め込まれ、同年のサルテスの海戦でも敗れた。この講和で、最初の妃を亡くしていたカスティーリャ王フアン1世の後添えとして、王妃レオノール・テレスとの間の王女ベアトリスを嫁がせることに同意した。王には嫡出の男子がなかったため、ポルトガル王位は嫡出男子が継ぎ、いなければベアトリスが継ぐといった内容の契約が両国で交わされた。

1383年10月22日、フェルナンドは嫡出の男子のないまま、結核のため、38歳になる少し前に亡くなった。契約に基づいて、ベアトリスが女王即位を宣言し、母レオノール・テレスが摂政となったが、ポルトガルの貴族の多くや国民は、カスティーリャ人が国政の実権を握ることを嫌った。フェルナンドの庶弟ジョアンはカスティーリャ軍の侵攻を撃退し、1385年にジョアン1世として即位して、アヴィス朝を興した。

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