伝記
ヨシフ・スターリンは、1878年12月18日(ユリウス暦12月6日)、ロシア帝国統治下のグルジアのゴリに生まれた。本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリで、「スターリン」は「鋼鉄の人」を意味する筆名である。父は靴職人、母は農奴の家系の出で、スターリンは第3子だったが、2人の兄が幼くして亡くなったため実質的な長男として育った。父は事業が行き詰まると酒に逃避し、妻子にしばしば暴力をふるった。母ケテワンは息子を連れて家を出て、掃除婦や洗濯婦として働きながら、学校教育を受けさせようと努めた。1884年に天然痘にかかって顔に痘痕が残り、馬車にはねられた後遺症で左腕にも障害を抱えたが、学業では優秀な成績を残した。
1894年に奨学金を得て首都トビリシの神学校に入った。当初は成績優秀だったが、やがて神学への興味を失い、学内の読書クラブで禁じられた書籍に触れ、『資本論』に影響されてマルクス主義者となった。神学校の記録によれば、自らを無神論者と宣言し、礼拝への参加を拒んで、繰り返し処罰を受けた。1899年に神学校を去って気象台に勤め、勤務のかたわら宣伝活動を行い、1900年のメーデーには労働者の秘密会合を組織した。秘密警察に察知されて地下に潜り、1901年にロシア社会民主労働党のトビリシ委員会委員に選ばれた。港湾都市バトゥミでは労働者のストライキを組織したが、抗議デモに軍隊が発砲して13人が死亡し、1902年4月に逮捕され、のちに東シベリアへの3年間の流刑を宣告された。
その後、レーニンのボリシェヴィキ派に加わり、1912年に党中央委員に選出された。1917年の十月革命後には人民委員会議の有力者となり、1922年4月に党書記長に就任して、同年12月のソビエト連邦の建国にも深く関与した。1924年1月にレーニンが死去すると、後継をめぐるトロツキーとの権力争いを制し、1929年にトロツキーを国外追放して、書記長に権限を集中させた。1928年10月には新経済政策を切り上げ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。農業の集団化と工業重点化を進め、農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済力を持つ基盤をつくったと評される。一方で、農業政策の混乱によりウクライナなどで深刻な食糧不足が起き、ホロドモールが発生した。反対派への弾圧は大粛清で頂点に達し、軍の将官を含む数十万人が処刑あるいは追放された。
1939年にはドイツと独ソ不可侵条約を結び、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦の引き金となった。1941年6月に独ソ戦が始まると、連合国陣営に加わり、大粛清の影響もあって大きな苦戦を強いられたが、やがて態勢を立て直し、ベルリンを陥落させて東欧を支配下に置いた。戦後はソ連を国際連合安全保障理事会の常任理事国とし、アメリカと並ぶ超大国に押し上げて、冷戦の対立構造のなかで東側陣営を広げていった。1953年3月5日、クンツェヴォの別荘で病没した。1956年2月の第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を行うと、偉大な指導者という評価は恐るべき独裁者へと一転した。その評価は今日のロシアでも、暴君とする見方と英雄とする見方が混在している。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・マリン (1953年没)
- エセル・ミューケルト (1953年没)
- アンリ・ベルンスタン (1953年没)
- ミラード・ミッチェル (1953年没)
- メアリー・オブ・テック (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドレイ・チホノフ (1993年没)
- レオニード・ガイダイ (1993年没)
- ヤーコフ・アグラーノフ (1938年没)
- セルゲイ・シモノフ (1986年没)
- フョードル・アプラクシン (1728年没)