伝記
メアリー・オブ・テックは、1867年5月26日にロンドンで生まれた、イギリス・ウィンザー朝の国王ジョージ5世の王妃である。ヴュルテンベルク王家の傍系の出で、父はテック公フランツ・パウル、母はケンブリッジ公爵アドルファスの次女メアリー・アデレードであった。ジョージ3世の曾孫にあたり、ヴィクトリア女王の従姪でもある。名付け親はヴィクトリア女王で、名の「ヴィクトリア」は女王が直々に与えたものとされ、愛称は「メイ」だった。父の家系は貴賤結婚のため爵位はあっても収入がなく、一家の収入は母が女王から与えられた年金5000ポンドで、裕福ではなかった。両親が派手好きで借金を重ねたため、少女時代は物価の安い外国の親戚のもとを転々とした。この暮らしで各国の文化に触れ、芸術への深い造詣を持つことになり、とくにフィレンツェで過ごした時期には多くの美術館や教会を訪れたという。
女王の配慮で1885年にイギリスへ戻り、リッチモンド・パークのホワイト・ロッジに定住した。次々代の国王とみられていたクラレンス公アルバート・ヴィクター(愛称エディ)は縁談がまとまらず、女王は、エディの幼なじみで自らも気に入っていたメイとの婚約を整えさせた。二人は1891年12月に婚約し、翌年2月27日に結婚する予定だったが、エディは1892年1月にサンドリンガム・ハウスで体調を崩し、インフルエンザと肺炎を併発して14日に急逝した。弟のジョージが同年5月にヨーク公に叙されて王位継承者となり、若くして婚前に未亡人となったメイを気遣い、兄の跡を継いで彼女を妻に迎えようと考えた。女王も同じ意見だったという。1893年5月3日にジョージが求婚し、メイは受諾して、同年7月6日にセント・ジェームズ宮殿の王室礼拝堂で式を挙げた。二人は五男一女をもうけ、ジョージは愛人を作らず、円満な家庭生活を送った。
1901年にヴィクトリア女王が崩御して、エドワード7世が即位すると、メイは王太子妃となった。同年3月、夫妻は女王の葬儀に出ないままオーストラリアなどへの旅に出て、11月に帰国している。1905年10月から翌年3月までインドも訪れた。1910年にエドワード7世が崩御し、夫は即位して、彼女は「メアリー王妃」となり、ファーストネームのヴィクトリアは用いなかった。1911年6月22日に戴冠式を行い、同年12月にはデリーで大謁見式にも臨んだ。第一次世界大戦では、ドイツ出身であることから王室の存続が危ぶまれたが、夫は質素倹約に努めて国民の支持を得、1915年には家名をウィンザー家に改めた。メアリーの実家のテック家も称号を放棄してケンブリッジ侯爵となった。彼女は夫の意向に積極的に応じ、軍人や死傷者に直接会って慰めるなど、王妃としての責務を誠実に果たしたとされる。
子供たちのうち、次男アルバートは1923年にエリザベスと結婚した。1936年1月20日に夫がサンドリンガム・ハウスで崩御し、長男がエドワード8世となったが、ウォリス・シンプソンとの結婚をめぐって国内の反発が起こると、母は彼の退位に強い影響力をかけたとされる。次男ジョージ6世の戴冠式には、王家の不文律を破って出席した。第二次世界大戦中はロンドンの空襲を避け、姪の嫁ぎ先のボーフォート公の居城に疎開した。1952年2月に次男が崩御して孫娘がエリザベス2世となり、太王太后となったメアリーの落胆は大きかった。翌1953年3月24日、同年6月の孫娘の戴冠式を見ることなく、満85歳で世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ダマソ・ベレンゲル (1953年没)
- ロバート・ファーディナンド・ワーグナー (1953年没)
- ヨセフ・テルンストレーム (1953年没)
- ハンス・フリッチェ (1953年没)
- リチャード・ピアース (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- マーガレット (スノードン伯爵夫人) (2002年没)
- ランドル・デイヴィッドソン (1930年没)
- アラベラ・チャーチル (1730年没)
- エドモンド・マローン (1812年没)
- ジョージ・イヴリン・ハッチンソン (1991年没)