HISTORICAL PERSON · 1378年没

アユルシリダラ

北元皇帝。父と共に大都を放棄しモンゴル高原へ逃れて即位、ココ・テムルの支えで一時明軍を撃退したが漢地の奪回は果たせなかった。

生涯
1378年没
死亡地
モンゴル国(ウブルハンガイ県 / カラコルム)
出生地
—
出典
世界地図
モンゴル国(ウブルハンガイ県)

伝記

アユルシリダラは、モンゴル帝国の第16代ハーンで、北元としては第2代の皇帝にあたる。尊号はビリクト・ハーンという。1340年1月23日に生まれ、1378年に没した。父は順帝(恵宗)トゴン・テムル、母は高麗出身の奇皇后で、トゴン・テムルの長男である。モンゴルの貴族たちの多くは、母がもと宮女で茶を給仕する身分だったことから、別のボルジギン家の後継者を望んだとされる。10歳のとき、父の重臣トクトの家で、初めて漢語の教えを受けた。

1353年に皇太子となると、しだいに政治権力を自ら握ろうとした。しかし、政治への意欲を失った父の下で政権を操っていた重臣たちは、これを快く思わず、彼らと対立した。1354年には、母の支持を受けて、紅巾の乱の鎮圧にあたっていたトクトを汚職と法令違反で訴え、失脚させたと伝えられる。宰相ハマが皇太子を即位させようと企てたが発覚し、ハマは1356年に流刑地で絞殺されたが、アユルシリダラは赦された。1360年には、母とともに宰相タイピンを通じて皇帝の退位を促そうとしたが、拒まれたため、その一派に毒を盛って辞職に追い込んだともいわれる。1364年、反皇太子派は、大同を本拠とする軍閥ボロト・テムルを首都の大都に呼び込んだため、アユルシリダラは大都を離れ、ボロト・テムルの政敵である河南の軍閥ココ・テムルを頼って太原に逃れた。翌1365年、ココ・テムルに命じてボロト・テムルを討たせ、大都に帰って政権を握った。しかし、この内紛の結果、元軍は質量ともに惨憺たる状況に陥った。1367年、父帝によって中書令・枢密使に任命され、行政と軍事においてハーンに匹敵する権限を与えられたが、その間に江南では朱元璋が着々と勢力を拡大していた。

1368年、河南で防衛にあたっていたココ・テムルの軍が、朱元璋の建国した明の北伐軍に敗れ、大都を守る軍事力が失われた。アユルシリダラは父帝とともに大都を放棄し、モンゴル高原南部の応昌府へ逃れた。1370年に父が応昌府で崩御するとハーンに即位したが、その隙を李文忠率いる明軍に突かれて翌月に応昌府を追われ、数十騎を引き連れて、モンゴル高原中央部の旧都カラコルムへ逃れた。すでにカラコルムに着いていたココ・テムルに国事を任せ、元号を宣光と改めた。さらに遅れてモンゴル高原へ逃れてきた軍と合流し、態勢を立て直した。北元は、東北地方から新疆にまで及ぶ領域をもち、全体としてなお強い勢力を保った。明の洪武帝は何度も武器を捨てるよう求めたが、アユルシリダラは応じなかった。

1372年1月、明の徐達が率いる大軍がモンゴル高原に侵攻し、カラコルムに迫った。明は15万の軍を送り込んだが、ココ・テムルやカラジャンの活躍によって、トール川や嶺北などで撃退された。このころアユルシリダラは、元のもとの属国だった高麗の恭愍王に、ともにチンギス・ハーンの子孫として協力するよう手紙で求めた。しかし恭愍王は助力を拒み、モンゴルに対抗する政策を始めた。その後は漢地の再奪取を目指し、ココ・テムルを総司令官として軍を南下させ、一時は山西北部まで勢力を盛り返した。ところが1375年にココ・テムルが病死すると、反攻は頓挫した。その3年後の1378年、アユルシリダラはカラコルムで崩御し、後を異母弟ともされるトグス・テムルが継いだ。

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