伝記
耶律楚材は、1190年7月24日(明昌元年6月20日)に生まれた。字は晋卿で、禅に深く帰依して湛然居士と号した。遼(契丹)の太祖耶律阿保機の血筋を引く契丹人だが、家は代々中国の文化に親しんで漢化しており、遼の滅亡後は金に仕えた。祖父は耶律聿魯、父の耶律履は宰相級の尚書右丞に昇った。楚材は父が高齢になってから生まれた三男で、3歳のとき父が61歳で亡くなったため、漢人の生母楊氏に厳しく育てられた。
成人すると、宰相の子であるため科挙を免れ、代わりの試験を首席で通って尚書省の下級官僚となった。モンゴルが金に攻め込んだとき、首都の中都(現在の北京)で左右司員外郎を務めていたが、1214年に中都が陥落してモンゴル軍の占領下に入った。家柄がよく、長身長髭で堂々としており、天文と占いに通じていたため、チンギス・カンの目に止まって召し出され、側近くに仕えることになった。1219年からの中央アジア遠征にも本隊に随行し、おもに占星術師として働いた。このときの体験と詩作は、のちに『西遊録』に残された。チンギスの死後、後継者をめぐってクリルタイが紛糾すると、楚材がオゴデイを立てるよう説き、その即位に大きく貢献したとされる。ただしこの逸話は中国の史料にしか伝わらず、疑わしいと指摘されている。
オゴデイが即位すると、楚材は漢語担当の書記官ビチクチとして新しいハーンにも仕え、中書省と呼ばれた書記機構の幹部となって、旧金朝領の華北の統治に携わった。あるモンゴル軍人が、華北の平原を無人にして遊牧に適した土地にするため、捕虜の中国人を皆殺しにするよう進言したとき、楚材はこれを押しとどめた。捕虜を3つの万戸に分け、職業ごとの戸籍をつくって、戸を単位に課税する中国式の税制を導入させたのである。これでモンゴル帝国は定住民から安定した高い税収を得られるようになり、オゴデイは楚材を賞賛したという。1234年にモンゴルが金を滅ぼして北中国を併合すると、楚材は全土をハーンの直轄領とするため、モンゴル貴族に領土を分け与えることに反対したが、黙殺された。また、儒学を家業とする家を「儒戸」に指定して税を軽くし、儒教の学問と祭祀を行わせる制度を考案し、実務官僚の供給源とした。
しかしオゴデイの晩年には、人を単位に課税する人頭税を中国に導入しようと説く、中央アジア出身のムスリムの財務官僚が台頭し、中国式の統治を守ろうとする楚材らと対立した。収入を確保しやすいため、モンゴル人は彼らを重用し、楚材は信任を失っていった。1241年にオゴデイが亡くなると、楚材はほとんど発言力をもたず、3年後の1244年6月20日、失意のうちに亡くなった。清貧を守ったため、遺産は琴と書物ばかりだったという。詩作をよくし、詩集に『湛然居士集』がある。長男の耶律鉉は30歳前後で早世し、末子の耶律鋳が跡を継いだ。鋳は嫡子の耶律希亮とともにクビライに仕えて中書左丞相に昇ったため、楚材は再評価され、太師・上柱国を贈られ、広寧王に追封されて文正と諡された。
楚材は、中国や日本で古来高く評価され、モンゴル帝国の宰相として民衆を救った人物とみなされてきた。だが近年の研究は、楚材は書記官のビチクチにすぎず、帝国全体の宰相とはいえないとする。楚材自身は「中書侍郎」や「領中書」としか名のっておらず、同時代の南宋の使節の記録も、モンゴルには「相」という肩書きはなく、ビチクチは文書の発給を担当するだけだと述べている。のちにクビライの時代に草創期の記録をまとめたとき、楚材の自称を宰相職と誤認した記録ができ、それが『元史』に取り入れられたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス・コムネノス・ドゥーカス (エピロス・テッサロニキ専制公) (1244年没)
- レオノール・デ・カスティーリャ (1244没) (1244年没)
- ブシャール4世・ダヴェーヌ (1244年没)
- ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル (1244年没)
同じ地域に関係する人物
- テルケン・ハトゥン (1233年没)
- アユルシリダラ (1378年没)
- ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公) (1246年没)