伝記
カール4世は、ルクセンブルク家出身の神聖ローマ皇帝で、ボヘミア王としてはカレル1世(在位1346年〜1378年)と呼ばれる。1316年5月14日にプラハで生まれ、1378年11月29日に没した。文人皇帝として知られ、最初の「近代的」君主と称されることもある。父は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子でボヘミア王となったヤン(ヨハン)、母はボヘミア王ヴァーツラフ2世の娘エリシュカである。母はプシェミスル家最後の王ヴァーツラフ3世の妹で、彼はチェコ人の血も引いていた。はじめは伯父や外祖父と同じ名のヴァーツラフとされた。
3歳のとき、政治をめぐる両親の確執から母のもとを離され、ロケト城に幽閉された。7歳から14歳までは、パリの宮廷で養育された。フランス王シャルル4世の王妃が父の妹だった縁による。このとき彼は代父にあたるシャルル4世にちなんで、名をシャルル(ドイツ語でカール、チェコ語でカレル)と改めた。教師は、のちの教皇クレメンス6世となるピエール・ロジェで、ラテン語や神学、帝王学を授けたといわれる。この教育を受けて、彼は繊細で教養の高い若者に育ち、後年、彼が皇帝に選ばれる際の決定的な機縁ともなった。1329年にはヴァロワ伯シャルルの娘ブランシュを最初の妻に迎えた。
1330年にパリを去り、翌1331年から2年間、父と共にイタリア遠征をおこなった。その間にミラノのヴィスコンティ家に毒を盛られかけたり、フィレンツェとの戦いを自ら指揮したりして経験を積み、芸術家や文人との交わりを通して、初期ルネサンスの人文主義に触れた。詩人ペトラルカも若き彼に期待した一人である。1333年にボヘミアへ帰り、1334年にモラヴィア辺境伯となり、1340年からは失明した父の代理としてボヘミアを統治した。1344年には、プラハ城内に聖ヴィート大聖堂の建設が始まり、プラハには独立した大司教座が置かれた。
1346年、教皇クレメンス6世は、皇帝ルートヴィヒ4世と対立して、彼を対立王として擁立し、選帝侯もこれを支持した。しかし彼は、教会保護の義務だけを皇帝に負わせるという教皇庁の意向をすべて受け入れ、従来の皇帝の権限の多くを手放したため、帝国全土で「坊主王」と嘲られた。この年、父と共にフランス側で参戦した百年戦争のクレシーの戦いで、父は戦死し、彼はボヘミア王とルクセンブルク伯を継いだ。翌1347年にプラハでボヘミア王として戴冠し、直後にルートヴィヒ4世が死去して、正式に単独のローマ王となった。
帝国内には反対勢力も根強く、彼は当面、本拠地のボヘミアを固めた。1348年、プラハを皇帝の都として整備することを宣言し、プラハ大学(現在のカレル大学)の設立を命じた。アルプス以北に大学がなかったため、プラハを「東方のパリ」にしようとしたのである。この大学は、のちにヤン・フスらを輩出した。1354年から1355年のイタリア遠征では、ミラノでイタリア王、ローマで皇帝として戴冠し、教皇との協約で互いの主権を尊重した。戴冠は1355年4月5日で、彼はその日のうちにローマを離れた。イタリアへの介入は避け、帝国の平穏とボヘミアの発展に力を注いだ。1356年には最高法規である金印勅書を発布し、皇帝の選出に教皇の認可を要しないこと、七人の選帝侯が選出権を持つことなどを定めた。
同じ年に亡くなった人物
- Jelena Subic (1378年)
- グレゴリウス11世 (ローマ教皇) (1378年没)
- Ludolph of Saxony (1378年(推定))
- ジャンヌ・ド・ブルボン (1378年没)
- アユルシリダラ (1378年没)
同じ地域に関係する人物
- Petr Kment (2013年没)
- グタ・ハブスブルスカー (1297年没)
- ヴラジミール・クレメンティス (1952年没)
- ヤン・イェセニウス (1621年没)
- クレメント・ゴットワルト (1953年没)