伝記
ペドロ1世は、1334年8月30日に生まれたカスティーリャ王国の国王である。父は国王アルフォンソ11世、母はポルトガル王アフォンソ4世の娘マリアである。その行いから、残酷王とも、正義王とも呼ばれる。父には愛妾レオノール・デ・グスマンがおり、ペドロが生まれる少し前の1334年1月13日に、2人のあいだにエンリケが生まれていた。エンリケはトラスタマラ伯の位を与えられ、異母弟のペドロより実質的な長男として育った。ペドロは王子のころ、イングランド王エドワード3世の次女ジョーンと婚約したが、彼女はフランスからの道中、黒死病によってバイヨンヌで急死した。
1350年3月に父が亡くなり、ペドロは王位に就いた。しかし家臣たちの傀儡にすぎず、これに反発したが、母マリアの裏切りもあって逆に押さえ込まれた。やがて家臣たちが仲間割れを始め、その機に乗じてペドロは実権を握り、母をポルトガルへ追放した。異母兄のエンリケも国外へ逃れ、ペドロに敵対した。1353年6月3日、母后マリアとポルトガル人の宰相の勧めで、第2代ブルボン公ピエール1世の娘ブランシュと結婚した。しかしペドロは彼女を幽閉し、フランス王家とも対立することになった。一方、愛妾マリア・デ・パディーリャとのあいだには、1353年から3年続けて女子が生まれた。ブランシュは1361年に孤独のうちに亡くなった。
ペドロは有力貴族を弾圧して王権を強め、下級貴族の文官やユダヤ人を登用した。1366年、エンリケが国内の多くの不満分子を集めて武装蜂起した。これが第1次カスティーリャ継承戦争である。反乱軍は、アラゴン王ペドロ4世やフランス王シャルル5世と結んでいた。フランス王は、傭兵の問題を片づけるためにベルトラン・デュ・ゲクランに傭兵を率いさせ、1366年にカスティーリャへ遠征させた。ゲクランは3か月で首都ブルゴスを落とし、エンリケを戴冠させた。国を追われたペドロはアキテーヌへ亡命し、9月23日、領土の割譲を条件に、同地を治めるエドワード黒太子と条約を結んだ。1367年4月3日にカスティーリャへ戻り、グラナダ王とも結んだペドロと黒太子はナヘラの戦いに勝ってゲクランを捕虜にし、エンリケは敗走した。
勝利は長続きしなかった。黒太子と兵士は赤痢にかかってボルドーまで退いた。条約では戦費の半分をペドロが負担するはずだったが、ペドロは支払いを拒んだ。黒太子はアキテーヌで徴税を行い、人々の離反を招いた。解放されたゲクランは再びエンリケ側の将として戦いに戻り、1368年9月にエンリケが再びカスティーリャに入ると、諸都市は次々にエンリケに味方した。1369年3月23日、モンティエルの戦いでゲクランの献策によるエンリケ軍の奇襲を受けたペドロは敗れ、戦死した。捕らえられて処刑されたともいわれ、エンリケと面会して顔を短刀で切りつけられて死んだともいわれる。エンリケはエンリケ2世として即位し、トラスタマラ王朝の祖となった。
ペドロの次女コンスタンサはランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに、三女イサベルはヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーに嫁いだ。コンスタンサは王位を請求し、ジョンは妻の権利を主張して1386年にカスティーリャへ遠征したが、2人の即位は果たせなかった。1388年、コンスタンサは王位継承権を放棄した。娘のカタリナはエンリケ2世の孫のエンリケと婚約し、1390年に結婚した。ペドロの治世は治安がよく、その恩恵を受けた商人たちは没落を惜しんだとされる。ペドロの悪評の大部分は、反乱に勝った敵たちによって作られたものと見られている。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール1世 (1369年)
- マルガレーテ・フォン・ティロル (1369年没)
- ラーマーティボーディー1世 (1369年没)
- グイード・ゴンザーガ (1369年没)
- フィリッパ・オブ・エノー (1369年没)
同じ地域に関係する人物
- Bernardo de Balbuena (1627年没)
- フェルナンド・デ・ラ・セルダ (1275年没)
- ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ (1526年没)
- カルロス・デ・ボルボン=ドス・シシリアス (2015年没)
- フランシスコ・デ・ケベード (1645年没)