伝記
ラーマーティボーディー1世は、現在のタイにあった王国、アユタヤ王朝を創始した王である。1314年ごろに生まれ、1369年に没したとされる。即位する前はウートーン候と呼ばれ、ウートーンは「黄金のゆりかご」を意味する。出自には諸説あり、スコータイ王朝のもとでスパンブリーの国主だったとも、チエンセーンの出身とも、中国の出身ともいわれる。十七世紀のオランダ人ヴァン・フリートが記した伝承には、ウートーン王は中国から渡ってきた中国系の人物で、交易で成功して力をつけ、ペッチャブリーを治めたのちにアユタヤへ上ったと記されている。ただし、この人物はのちの研究で別のウートーン王とされており、ラーマーティボーディー1世の経歴とは区別して考えられている。
ウートーン候は、スコータイ王朝でモン族の王が反乱を起こしたとき、これを討って頭角を現した。1348年、治めていたスパンブリーで疫病(コレラと言われる)が流行したため、現在のアユタヤに新しい都を築いた。翌年にはアユタヤの別の場所に都を移し、ラーマーティボーディーと称してアユタヤの王に即位した。正式な即位の日は1351年3月4日とされ、このとき、アユタヤ、ロッブリー、スパンブリーの勢力に支えられて、チャオプラヤー川流域に中央集権の国家が成立したとも伝えられる。
即位後は、文武混合の行政組織を整え、内務、宮廷、大蔵、農業の四つの大臣を置いた。タイ人の古い慣習をもとにした法の整備も進め、これは1350年から1359年にかけての事業とされる。中国、インド、ペルシャなどとの貿易を行い、内政を整えると、南方に兵を送ってマレー半島全域を占領した。マレー半島は当時スコータイの領土だったため、スコータイのリタイ王は逆上し、クメールの加勢を得てアユタヤに軍を送ったが失敗した。ウートーン王は逆にクメールを平定し、その自治を認めたうえで掌握した。1352年にはアンコールを包囲し、翌年にこれを攻め落として、息子の1人を王位に就けたが、1357年にクメール側が取り戻した。スコータイには討伐軍を送ってチャイナートを占領したが、スコータイ王サイルータイが返還を求めたため、のちにチャイナートを返した。このほか明朝との同盟を結び、ワット・プッタイサワンやワット・パー・ケーオ、ワット・プラ・ラームなどの寺院を建てて仏教を保護した。
1369年に王が没すると、息子ラーメースワンが王位を継いだが、のちに王の義弟でスパンブリー王朝のボーロマラーチャーティラート1世に譲った。この後、2つの王家のあいだで長く継承争いが続くことになった。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール1世 (1369年)
- ヴィルヘルム2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1369年没)
- ペドロ1世 (カスティーリャ王) (1369年没)
- グイード・ゴンザーガ (1369年没)
- マルガレーテ・フォン・ティロル (1369年没)
同じ地域に関係する人物
- 山田長政 (1630年没)
- スリヤートアマリン (1767年没)
- ラーメースワン (1395年没)
- エーカートッサロット (1611年没)
- プラーサートトーン (1656年没)