伝記
フェルナンド・デ・ラ・セルダは、1255年10月23日にバリャドリードで生まれたカスティーリャ王国の王子で、のちにラ・セルダ家の祖とされた人物である(1253年生まれとする説もある)。父はカスティーリャ王アルフォンソ10世、母はアラゴン王ハイメ1世の娘ビオランテで、その長男にあたる。弟に、のちにサンチョ4世となるサンチョがいる。「デ・ラ・セルダ(剛毛の)」の異名は、胸か背に毛の生えたほくろがあったことにちなむ。生まれた翌年の1256年、ビトリアの議会で王位継承者と宣言され、誓いを受けた。
10歳のとき、父はフランス王ルイ9世の王女ブランシュとの縁組を決め、1266年9月28日にパリで婚約の取り決めが結ばれた。二人が若かったため、結婚式はその3年後、1269年11月30日にブルゴスで宮廷を挙げて行われた。フェルナンドは14歳、妻は3つ年上だった。式の後、父から騎士に叙せられ、自らも弟のフアンとペドロを騎士に叙した。だが弟サンチョは、兄から叙されるのを拒んだ。
その後、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼に出かけ、レオン王国の政務も扱った。1271年にアルフォンソ10世がムルシアに滞在していたとき、王は政務のすべてをバリャドリードにいたフェルナンドに任せるよう命じた。1272年7月15日にムルシアの総督に任じられたが、実際の職務は代理人が務めた。同じ年の夏にはセビリアで騎兵の大軍を率い、グラナダ王国との戦いに備えて、庶弟のアルフォンソ・フェルナンデスらの助言を受けた。1272年に貴族の反乱が起こると、母や叔父マヌエルとともに、父と反乱した貴族との交渉に力を尽くした。1273年3月にはアルマグロの会議に出席し、税の重さや、関税から出る十分の一税、議会への奉仕金などが論じられた。1274年のブルゴス議会では、父がヨーロッパへ「帝国の件」で旅立つ間、王国の摂政に任じられた。
留守の間、フェルナンドは王国を治めた。ナバラ王エンリケ1世が亡くなり、2歳の娘フアナが跡継ぎとなると、祖父のハイメ1世とカスティーリャの王冠がそれぞれ王位を主張した。アルフォンソ10世はヨーロッパへの旅が遅れないよう、ナバラ王位に対する自分の権利を長男に譲り、フェルナンドはビアナの町を包囲したが、のちに包囲を解くよう命じた。1275年4月にはバリャドリードの会合に出席した。そして1275年7月25日、南部でマリーン朝との戦いにのぞむ軍を率いようとしていた矢先、シウダー・レアルの城で急に亡くなった。まだ20歳になっていなかった。遺体はブルゴスのラス・ウエルガス修道院に葬られた。
フェルナンドには妻ブランシュとの間に二人の男子があった。父に先立った早すぎる死などが原因で、弟サンチョが父に反乱を起こし、1282年に王位を奪ってサンチョ4世として即位した。
同じ年に亡くなった人物
- ペニャフォールのレイモンド (1275年没)
- エリナー・オブ・レスター (1275年没)
- ベアトリス・ダングルテール (1275年没)
- John Palaiologos (1275年没)
- ベアトリーチェ・ディ・シチリア (1275年没)
同じ地域に関係する人物
- ペドロ1世 (カスティーリャ王) (1369年没)
- フランシスコ・デ・ケベード (1645年没)
- カルロス・デ・ボルボン=ドス・シシリアス (2015年没)
- ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ (1526年没)
- Bernardo de Balbuena (1627年没)