HISTORICAL PERSON · 1368年没

ライオネル・オブ・アントワープ

イングランド王エドワード3世の子でクラレンス公。娘の血統を通じ後のヨーク朝の王位継承権主張の根拠となった。

生涯
1368年没
死亡地
イタリア共和国(クーネオ県 / アルバ)
出生地
ベルギー王国(アントウェルペン)
出典
世界地図
イタリア共和国(クーネオ県)

伝記

ライオネル・オブ・アントワープは、1338年11月29日に生まれ、1368年10月17日に没したイングランドの王族である。イングランド王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの息子で、成人に達した2番目の王子にあたる。1362年にクラレンス公に叙された。エドワード黒太子の弟で、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント、ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリー、グロスター公トマス・オブ・ウッドストックの兄である。

1338年、両親が百年戦争の対フランスの前線として滞在していたフランドルのアントウェルペンで、聖ミカエル修道院に生まれた。エノーの医師ジル・ド・モンテが13週間にわたって赤子の世話をした。アントワープの名は生地にちなむ。ライオネルという珍しい名の由来には諸説あり、父の同盟者であったブラバント公ジャン3世の紋章である「ブラバントの獅子」にちなむとも、アーサー王伝説を愛した父が円卓の騎士サー・ライオネルになぞらえたともいわれる。名付け親は初代ソールズベリー伯ウィリアム・モンタギューであった。

まだ3歳のころから、ライオネルは息子たちの相続を確かにしようとする父の王朝政策に組み込まれた。1333年にアイルランド有数のアングロ・ノルマン系の家門の長、アルスター伯ウィリアム・ド・バラが死去し、一人娘のエリザベス・ド・バラが広大な領地を相続していた。1342年9月9日、ライオネルとエリザベスはロンドン塔で結婚した。持参金として、コノート、マンスター、アルスターなどアイルランド北部、西部、南西部の大きな所領を得た。実際に夫婦として暮らし始めたのは1352年とされ、1347年1月までに、ライオネルは妻の権利でアルスター伯として認められた。夫妻には1355年に娘フィリッパが生まれた。

1359年に父がフランス遠征に出ると、ライオネルは兄の黒太子や弟たちとともに従軍したが成果は上がらず、翌1360年にブレティニー条約が結ばれて英仏は和睦した。妻エリザベスに仕えていた詩人ジェフリー・チョーサーも従軍しており、ライオネルに同行したことや、1360年に一時捕虜になり、解放されてのちライオネル夫妻に再び仕えたことが記録されている。この条約のあと、ライオネルの経歴の多くはアイルランドと結びつく。1361年に国王代官に任じられて1366年までその任にあり、同じ年にガーター騎士にもなった。1362年に叙された公位により、アイルランドの貴族の筆頭となった。1366年2月にはキルケニー法を採択し、これはアイルランド統治に残る最も重要な遺産となった。

1363年に妻エリザベスが亡くなると、1367年にエドワード3世は、ミラノの僭主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティの娘ヴィオランテとの再婚を取り決めた。盛大な結婚式は1368年の5月か6月に行われたが、ライオネルはまもなく死去し、義父に毒殺された可能性もいわれる。ヴィオランテとのあいだに子はなかった。娘フィリッパはマーチ伯エドマンド・モーティマーと結婚し、その子ロジャー・モーティマーは、子のなかったリチャード2世の王位継承者に指名された。15世紀にヨーク家は、ライオネルと娘フィリッパを通じた血筋を根拠に、王位への優先権を主張した。

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