伝記
レオンティオス・ピラトスは、カラブリア出身の学者で、西ヨーロッパにおけるギリシア語研究の最初期の推進者の1人である。イタリア語ではレオンツィオ・ピラートとも呼ばれる。エウリピデス、アリストテレス、ホメロスの作品、なかでも『オデュッセイア』と『イリアス』をラテン語に訳して注釈を加え、西ヨーロッパで最初のギリシア語教授になった。
長らくギリシア系の出身と信じられてきたが、いまではカラブリアのセミナーラの生まれと知られている。ボッカッチョにあてた書簡がその根拠とされ、ペトラルカも、この修道士は完全にカラブリア人であるのに、ギリシア人と考えてしまう自分を戒めている。ペトラルカによれば、本人はギリシア北部のテッサリアの出身であると言いたがり、イタリア人よりギリシア人のほうが高貴であるかのように考えていたという。セミナーラのバルラームの弟子であり、バルラームがジェラーチェの司教になった1342年には、その地にいた。バルラームから旅への愛を伝えられ、各地を渡り歩く冒険家のような人物になったといわれる。ギリシア語を磨くためにクレタ島へ旅したとも伝えられる。
1360年、ボッカッチョの招きでフィレンツェに戻った。ボッカッチョとペトラルカは、ホメロスの詩の全訳を作るようピラトスを説得したとされる。ピラトスは1360年から1362年まで2年あまり、フィレンツェのボッカッチョの家で暮らし、ホメロスの翻訳に取り組み、ギリシア語を教えた。ボッカッチョの『神々の系譜』は、ピラトスとその知識から影響を受けており、ピラトスはギリシア神話の材料を提供した。ペトラルカの写本にも、ボッカッチョと同じように、ピラトスからギリシア神話の情報を集めたことを示す書き込みがある。
ピラトスのホメロス訳は、ごく素朴で、ほとんど逐語的なラテン語の散文だったという。西ヨーロッパの中世で行われたギリシア語からラテン語への逐語訳の方法に従ったもので、原文の内容は損なわれないが、文学的、文体的な性質は十分にとらえられない。ペトラルカは、ボッカッチョと違って、この翻訳に失望したようである。コルッチョ・サルターティもこの訳の写しを所有したが、ペトラルカと同じく批判的だった。一方、マルキ・ド・サドは、その「生き生きとして劇的な」訳しぶりを称賛した。
没年は1365年とも1366年ともいわれる。最期は航海の途中で、船がヴェネツィア湾の近くで難破し、書物とともに亡くなったとも、帆柱に寄りかかっていたところに雷が落ちて死んだともいわれる。難破は1365年12月のこととされる。この航海は、コンスタンティノープルからのものだったとも、ビザンティン帝国へ戻る途中のものだったとも伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ルドルフ4世 (オーストリア公) (1365年没)
- マリー・ダルトワ (1365年)
- ルペシッサのヨハネス (1365年)
- アンナ・ディ・サヴォイア (東ローマ皇后) (1365年没)
- ルートヴィヒ6世 (バイエルン公) (1365年没)
同じ地域に関係する人物
- フランチェスコ・チレア (1950年没)
- アナクシラス (紀元前476年没)
- スクリボニア (16年没)
- ヒッポ (紀元前460)
- シュラクサイのカリッポス (紀元前301)