HISTORICAL PERSON · 1362年没

インノケンティウス6世 (ローマ教皇)

アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇。フランス出身で、元は法律家としてトゥールーズで大学教授や判事を務めた。1353年にコーラを釈放してイタリアへ派遣し、アルボルノス枢機卿に教皇領を平定させた。

生涯
1362年没
死亡地
フランス共和国(ヴォクリューズ県 / アヴィニョン)
出生地
フランス共和国(Beyssac)
出典
世界地図
フランス共和国(ヴォクリューズ県)

伝記

インノケンティウス6世は、1282年に生まれ、1362年9月12日に没したローマ教皇で、在位は1352年から1362年まで、アヴィニョン捕囚の時期にあたる。フランス出身で、本名はエティエンヌ・オベールという。リムーザン地方のベイサック、のちにその一部となる集落に生まれた。父の名はアデマール・オベールである。一族の出自は不明な点が多いが、1220年からグランディエのカルトゥジオ会修道院の初期の寄進者に名が見える家柄であった。教皇となった1352年には、甥のギヨーム・オベールがリュベルサック近くのブレの城と領地を買い取っている。

家は法律家としての教育を受けさせるだけの余裕があり、トゥールーズ大学で教会法の博士号を取得して、同大学で市民法を教えた。リモージュで弁護士を務めたのち、トゥールーズ地方の判事にもなった。その後は聖職者としての道を歩み、カンブレーなどの助祭長、ラウラクの首席司祭、ルーヴィニャックの小修道院長などを歴任した。1332年にロメットの小修道院長となり、ノワイヨン司教に昇進し、2年後の1340年にはクレルモン司教に転じた。フランス王の顧問をつとめ、フランスの同輩衆にも列せられたのち、オスティア枢機卿司教となっている。品位ある簡素な暮らしを送る内省的な人物だったとされる。

1352年に教皇に選ばれ、前任者と同じくアヴィニョンに座した。前任者の華やかな宮廷生活のあとを受けて、節約の方針を取り、すべての高位聖職者に、それぞれの禄のある土地に戻って居住するよう命じ、従わなければ破門するとした。フランスで十分の一税を徴収しようとしたが拒まれた。戦争で荒れたフランスには大金を出す余裕がなかったためである。修道会には規則の遵守を求め、抵抗があれば力で抑えた。清貧を旨とするアッシジの聖フランチェスコの教えに忠実な人々やベギン会士を投獄し、火刑に処したとされ、その数の多さをスウェーデンの聖ブリギッタが厳しく非難したと伝えられる。人文主義者ペトラルカも、書簡で憤りを表した。

ローマ帰還への努力も見られた。1353年に、ローマの護民官でアヴィニョンに捕らえられていたニコラ・ディ・リエンツォ(コーラ)を、ペトラルカの助言もあって釈放した。教皇領も分裂していたため、翌1354年にはコーラと枢機卿ジル・デ・アルボルノスをイタリアへ派遣した。コーラは市民の歓呼の中でローマに戻って市政を担ったが、専制的な政治に民心は離れ、暴徒と化した群衆に殺された。元軍人のアルボルノスはフィレンツェで軍勢を集めて教皇領を平定し、教皇領の代理教皇に任じられた。それでも教会の財産の回復は一部にとどまった。

ヴィルヌーヴ=レザヴィニョンに、1356年、カルトゥジオ会の修道院を創設した。1358年には教会存続のため、自らの銀器や宝飾品を売る必要に迫られた。グラン・カンパニーの脅威に備え、アヴィニョンに城壁をめぐらせたが、この城壁は今も見られる。フランスの災難には深く心を痛め、ポワティエの戦いのあとはイングランド側から冗談の種にされたほどだという。ブレティニー条約の締結にも力があり、英仏の間に9年間の休戦がもたらされた。文芸と学者を愛し、規律正しく、慈悲深い教皇とも評される一方、縁者を優遇したとの批判もある。

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