伝記
ジラール・ド・ルシヨン(ジェラール2世、ジラール・ド・ヴィエンヌとも)は、九世紀のフランク王国で活動した貴族である。810年に生まれ、877年3月4日、あるいは879年ごろに没したとされる。パリ伯ルタール1世の息子で、ブルゴーニュの族長と呼ばれ、パリ伯やヴィエンヌ・リヨンの伯を務めた。フランス語圏の別の記述では、父はフェザンサック伯でパリ伯でもあった人物で、母はブルゴーニュの王女グリモーとされている。
「ルシヨン」の名は、ジラールがルシヨンの出身だったことを示すものではない。正式な歴史記録にそうした記述はなく、この称号はセーヌ川付近に築いた城に由来するといわれる。それでも叙事詩などの影響で、彼は「ジラール・ド・ルシヨン」と呼ばれることが多い。前半生については、ルイ敬虔王から与えられたとされる所領を815年から827年にかけて買い集め、820年から830年のあいだには、現在のヴェズレーにあたるヴェズリアクム領を手に入れたと伝えられる。皇帝の義弟として最初にアヴァロネとラソワの統治を任されたとも、838年ごろにパリ伯位に就いたともいわれる。結婚の時期は、843年とも、818年より前ともされ、一致しない。妻ベルトはトゥール伯ユーグの娘で、皇帝ロタール1世の妃エルマンガルドの姉妹にあたる。
ルイ敬虔王が840年に没したのち、ジラールは王子ロタール1世を支持した。841年のフォントノワの戦いで戦い、ロタールに従ってエクス方面へ赴いたとされる。この結果、パリ伯の地位は西フランク王シャルル2世の支配下に入って失われた。843年か844年にはリヨンとヴィエンヌの伯領を得て、842年からローヌ川をさかのぼって南フランスを荒らしていたサラセン人の侵入に備えたという。846年にはロタールに同行し、ローマを包囲したイスラム勢力への遠征に加わったとされる。
855年、ロタール1世の息子シャルルが名目上のプロヴァンス王となると、ジラールはこれを助ける知事となった。シャルルは病弱で、実際の支配者は養育係を務めたジラールだったと伝えられる。858年から859年には、ポティエールとヴェズレーの修道院を創設した。ヴェズレーは教皇への寄進として863年に認められ、ポティエールにはベネディクト会則に従う修道士が置かれたという。860年にはヴァランス付近で、カマルグを荒らしてローヌ川をさかのぼってきたヴァイキングを食い止めた。861年の秋にはシャルル2世の野心から王国を守ったとされる。863年にシャルルが没すると、ジラールは皇帝ルードヴィヒ2世の最初の顧問となり、シャルル2世に対抗してアキテーヌの反乱勢力とも手を結んだ。
869年にロタール2世が没すると、シャルル2世はプロヴァンスを手に入れようとした。ヴィエンヌの防衛にはジラールの妻ベルトがあたった。870年のメルセン条約でプロヴァンスはシャルル2世のものとなり、リヨンとヴィエンヌの伯位はシャルル2世の義弟ボソに与えられた。ジラールは871年に妻とともにアヴィニョンへ退き、おそらく877年、遅くとも879年には亡くなった。のちにジラールの信心深さ、ベルトの勇敢さ、シャルルとの戦いは、12世紀の武勲詩『ジラール・ド・ルシヨン』などの題材となった。しかし叙事詩では史実が大きく曲げられ、カール・マルテルに反逆する人物として描かれている。この作品は長くプロヴァンスのものと考えられてきたが、現在ではブルゴーニュに起源をもつことが示されている。
同じ年に亡くなった人物
- 呂洞賓 (870年)
- ムフタディー (870年没)
- フナイン・イブン・イスハーク (870年代没)
- ムハンマド・アル=ブハーリー (870年没)
同じ地域に関係する人物
- Paul Vasseur (1971年没)
- アヴィニョンのベネゼ (1184年没)
- クレメンス6世 (ローマ教皇) (1352年没)
- カミーユ・クローデル (1943年没)
- マージョリー・ノエル (2000年没)