伝記
ルイージ・ディ・ドゥラッツォは、1324年に生まれ、1362年7月22日に没したグラヴィーナ伯、モッローネ伯である。ルイージ・ディ・グラヴィーナとも呼ばれる。父はドゥラッツォ公ジョヴァンニ、母はアニェス・ド・ペリゴールで、ドゥラッツォ公となった兄カルロと、弟ロベルトがいた。
1337年、アルバニア王国の総代理および総司令官に任じられた。ナポリ女王ジョヴァンナ1世の治世に、ナポリの宮廷で、同じアンジュー家の分家であるターラント家と競いながらドゥラッツォ家が勢いを増すと、ルイージはローマ教皇庁へ派遣された王国の大使の一人となった。1343年にはマルゲリータ・ディ・サンセヴェリーノと結婚し、3人の子が生まれた。うち1344年生まれのルイージと1347年生まれのアニェーゼは早世し、1345年生まれのカルロは、のちにナポリ王カルロ3世、ハンガリー王となった。
ジョヴァンナの最初の夫アンドレアが殺されると、その兄であるハンガリー王ラヨシュ1世は復讐のためにナポリを攻めた。この侵攻は1347年とも1348年ともされる。ジョヴァンナはプロヴァンスへ逃れたが、ルイージは、この状況から利益を得ようと考えてか、兄弟とともにナポリに残った。兄カルロは殺害の責任を問われて1348年に処刑され、ルイージは弟ロベルトとともに捕らえられて、ハンガリーへ連れて行かれたといわれる。二人は1352年まで監禁された。
解放されたあと、ルイージはナポリに戻ってドゥラッツォ家の指導者となり、ジョヴァンナやターラント家と争った。傭兵団の支援を受けてプッリャで反乱を起こし、その後の生涯はこの反乱に費やされた。しかし1360年にターラント公ルイージに敗れ、1362年にナポリの卵城に監禁された。ハンガリー王に好意を示したため、陰謀の疑いで捕らえられたともいう。ルイージはまもなくそこで毒殺された。毒を命じたのはジョヴァンナともいわれるが、従兄弟のターラント家の者たちの企みによるともいわれる。遺体はナポリのサンタ・キアーラ聖堂に葬られたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- Asporca Hatun (1362年)
- ラヌルフ・ヒグデン (1362年(推定))
- ムハンマド6世 (ナスル朝) (1362年没)
- アンナ・シフィドニツカ (1362年没)
- インノケンティウス6世 (ローマ教皇) (1362年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。