伝記
ヴァーツラフ・ニジンスキーは、1890年3月12日、旅回りのダンサーだった両親が滞在していたロシア帝国のキエフ(現在のウクライナ)で生まれたバレエダンサー・振付師である。両親はともにポーランド人で、本人もワルシャワでカトリックの洗礼を受けたが、ポーランド語は苦手で、母語をロシア語とするロシア人としての自認も持っていた。三人きょうだいの真ん中で、幼いころは非常に活発で多動気味だったという。兄のスタニスラフも若くして精神疾患を発症し、精神病院に入ったまま第一次世界大戦のさなかに自殺した。妹のブロニスラヴァは兄を追ってバレエダンサーとなり、のちバレエ・リュスで唯一の女性振付師として活躍した。母は厳格ながら愛情深い女性だったが、父は愛人と出奔した。
九歳のころ、当時の首都サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場附属の帝室舞踊学校に入り、エンリコ・チェケッティらに師事した。学業の成績は振るわなかったとされるが、卒業後はマリインスキー劇場で主役に抜擢された。そのころ出会った興行師セルゲイ・ディアギレフが、彼の人生を大きく飛躍させた。当時の帝室舞踊学校の生徒は男女を問わずパトロンの支援を受けるのが一般的で、二人の出会いもその一つであり、二人は公私にわたって深い親交を結んだ。1909年にディアギレフがパリでバレエ・リュスを旗揚げすると、ニジンスキーも一時マリインスキー劇場を離れて参加し、公演は各地で大成功を収めた。1911年に劇場とのトラブルで解雇されると、再びバレエ・リュスに戻り、フォーキン振付の『薔薇の精』や『ペトルーシュカ』に主演した。とくに『薔薇の精』では、空を飛ぶような高い跳躍で観衆を驚かせた。
その後はディアギレフの支えで三つの作品を振り付けた。ドビュッシーの曲による『牧神の午後』(1912年)、同じくドビュッシーが書き下ろした『遊戯』(1913年)、リヒャルト・シュトラウスの交響詩による『ティル・オイレンシュピーゲル』(1916年)である。『牧神の午後』は性的にすぎるとして批評家に不評を買い、ディアギレフでさえ彼の振付の才能を疑い始めた。そんな中で手がけたストラヴィンスキー作曲の『春の祭典』(1913年)では、脚を内股にし頭を曲げるなど、19世紀のクラシック・バレエでは考えられない振付を行い、20世紀バレエの幕開けとされる。同じ1913年の南米公演の航海中、ハンガリー貴族の令嬢ロモラ・デ・プルスキに求婚し、ブエノスアイレスで結婚したが、知らせを受けたディアギレフは激怒して二人を解雇した。
1914年に新たなバレエ団を旗揚げしたが失敗し、心労から抑うつや錯乱、奇行が見られるようになる。第一次世界大戦が始まると、妻の出身地ハンガリーでロシア人として自宅に拘留された。1916年にはディアギレフに呼び戻されて北米公演に加わった。1919年1月19日、スイスのサンモリッツのホテルで「神との結婚」と名づけた公演を行ったのを最後に神経衰弱に陥り、同年3月、オイゲン・ブロイラーの診察で統合失調症と診断された。以後は精神病院を転々とし、インスリン・ショック療法も受けたが、ついにバレエの世界へ戻ることはなかった。妻ロモラは高価な治療で私財を使い果たしながらも夫を支え続けた。第二次世界大戦中はロモラの実家のあるブダペストで入院生活を送り、1947年にロンドンへ移った。1950年4月8日、ロンドンの病院で亡くなり、遺体は1953年にパリのモンマルトル墓地に改葬された。「空中で静止したような」跳躍と中性的な身のこなしで伝説となったが、映像は一つも残っていないとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ラマナ・マハルシ (1950年没)
- クルト・ヴァイル (1950年没)
- ジョージ・リチャーズ・マイノット (1950年没)
- アドルフ・ヴィークルンド (1950年没)
- ドミトリー・ウズナーゼ (1950年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・エイクマン (1981年没)
- ラザフォード・オールコック (1897年没)
- リュシアン・ピサロ (1944年没)
- リチャード・カンティロン (1734年没)
- ポーラ・イェーツ (2000年没)