伝記
ジョージ・リチャーズ・マイノットは、1885年12月2日にマサチューセッツ州ボストンで生まれたアメリカの医師、医学研究者である。父ジェームズ・ジャクソン・マイノットも医師で、父のいとこには解剖学者のチャールズ・セジウィック・マイノットがいた。曽祖父の1人は、マサチューセッツ総合病院の共同創設者の1人であるジェームズ・ジャクソンである。名は高祖父にあたる同名の人物にちなんだもので、少年期にはまず自然科学に、続いて医学に関心を抱いたとされる。
1908年にハーバード大学を卒業し、1912年にハーバード大学医学部で医学博士の学位を得た。1913年から1915年にかけてはジョンズ・ホプキンス大学医学部のウィリアム・ハウエルの研究室で、抗トロンビンなど血液の凝固を妨げるたんぱく質を研究した。1915年にマサチューセッツ総合病院の医局員の職を得て、貧血の研究に着手している。同じ1915年にマリアン・リンジー・ウェルドと結婚し、2人の娘と1人の息子をもうけた。第一次世界大戦中はアメリカ陸軍の軍医を務め、アリス・ハミルトンとともに、ニュージャージー州の軍需工場で労働者が病気になる原因を調べた。その結果、皮膚がTNTに触れることが病気につながっていたことを突き止めたという。
1917年にボストンのコリス・P・ハンティントン記念病院に移り、1923年に内科部門の長となり、1934年には主任医師に任じられた。ハーバード大学の医学教授となり、ボストン市立病院のソーンダイク記念研究所の所長にも任命され、ピーター・ベント・ブリガム病院でも勤務している。ハーバード大学の悪性貧血委員会の一員でもあり、アメリカ薬局方の抗貧血製剤諮問委員会でも務めを果たした。1926年にはウィリアム・マーフィとの論文で、特別な食事による悪性貧血の治療法を発表した。悪性貧血は当時は致命的な病気であったが、2人が見いだした治療には肝臓の濃縮物が用いられ、のちに、そこに多く含まれるビタミンB12が治療の決め手となる物質であると明らかになった。
この業績により、マイノットは1930年にエディンバラ大学のキャメロン治療学賞をマーフィとともに受け、1934年にはジョージ・ウィップルとマーフィと並んでノーベル生理学・医学賞を受賞した。1926年にはアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれ、1935年にはアメリカ哲学協会、1937年には全米科学アカデミーの会員となっている。
私生活では、1921年に35歳で糖尿病と診断された。診断したのは同僚の教授で糖尿病の第一人者であったエリオット・ジョスリンで、当時この病気は死に至るものであり、ジョスリンは食事の制限によって命をつなぐほかなかった。身長6フィート1インチに対して体重は135ポンドしかなく、1日530キロカロリーの食事を課されたという。だが、ほぼ同じ時期にインスリンが発見され、約1年後に広く使えるようになったことで命をつないだ。ウィリアム・キャッスルは、バンティングとベストのインスリンの発見が、糖尿病の治療を変えただけでなく、マイノットの命を保つことを通じて悪性貧血の治療法の発見にも寄与したと述べた。マイノットは1940年から糖尿病の合併症に悩まされ、1947年には重い脳卒中で体の一部が麻痺した。1950年2月25日、マサチューセッツ州ブルックラインで死去した。ブルックラインの自宅は、その業績をたたえて国定歴史建造物に指定されている。
同じ年に亡くなった人物
- マックス・ベックマン (1950年没)
- ハロルド・ラスキ (1950年没)
- オーロビンド・ゴーシュ (1950年没)
- カーター・G・ウッドソン (1950年没)
- Yosef Yitzchok Schneersohn (1950年没)
同じ地域に関係する人物
- エドワード・ミルズ・パーセル (1997年没)
- ジェームズ・コノリー (陸上選手) (1957年没)
- ジョン・ジェフリーズ (1819年没)
- アンドリュー・ジャクソン・デイヴィス (1910年没)
- メアリー・キャサリン・ベイトソン (2021年没)