HISTORICAL PERSON · 1359年没

ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニ

イピロス専制公。母による父毒殺後に幼くして即位、東ローマに一時併合されるも故地を回復して混乱期を統治した。

生涯
1359年没
死亡地
ギリシャ共和国(テッサリア / アヘロオス川)
出生地
—
出典
世界地図
ギリシャ共和国(テッサリア)

伝記

ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニは、イピロス専制公国の君主である。1329年に生まれ、1359年に没した。1335年から治め、のちに1356年から亡くなるまで再び治めた。ギリシア系のイピロス専制公としてはニキフォロス2世ドゥカス、イタリア系のケファロニア宮廷伯としてはニチェフォロ・オルシーニと呼ばれる。父はジョヴァンニ2世オルシーニ、母はギリシア人のアンナ・パレオロギナで、ギリシア語とイタリア語の両方に堪能だったといわれる。

1335年、母アンナが父ジョヴァンニを毒殺したとされ、ニキフォロスはまだ7歳の幼さで君主となった。母が摂政を務めたが、イピロスの併合をかねて望んでいた東ローマ帝国には、この事件が格好の口実となった。皇帝アンドロニコス3世は、重臣のヨアニス・カンダクジノスらを伴ってイピロスの併合に乗り出し、母は抵抗したが敗れた。1338年に母は東ローマ帝国へ連行され、ニキフォロスはその前に、アカイア公未亡人カトリーヌ・ド・ヴァロワのもとへ預けられたともいわれる。東ローマ帝国に不満をもつ土着の有力者たちは、亡命中のニキフォロスを押し立てて離反し、帝国の行政官シナディノスは捕らえられた。アンドロニコス3世がカンダクジノスらを再び派遣して長い包囲と交渉が続き、1340年に降伏が成った。ニキフォロスは引き渡され、コンスタンティノポリスでカンダクジノスの娘マリアと結婚し、最高位尊厳侯の位を授けられた。母のアンナはテッサロニキに幽閉されたがほどなく逃れ、アルタに戻ると、アルバニア専制公ヨヴァン・コムニノス・アセンと結婚した。

1341年にアンドロニコス3世が死去すると、帝位をめぐる内乱が始まり、ニキフォロスは妻のマリアらとともに、カンダクジノス家の拠点アドリアノープルに身を寄せた。1347年2月にカンダクジノスが勝利してヨアニス6世として戴冠すると、ニキフォロスは専制公の位を正式に授けられ、エノスの行政官として派遣された。以後もヨアニス6世の婿として政権を支え、ヨアニス5世パレオロゴスが義父と争ったときも、義父を支援し続けた。

しかし1354年にヨアニス6世が廃位され、翌1355年にセルビア王ドゥシャンが死ぬと、ニキフォロスはカンダクジノス家への忠誠を捨て、ヨアニス5世と和解してトラキアを離れ、故郷へ向かった。1356年に入るとテッサリアを手に入れ、イピロスへ進んで、統治していたドゥシャンの弟シメオン・ウロシュと、その妻でニキフォロスの姉妹であるソマイスを、カストリアに追放した。ニキフォロスはマリアとともにアルタで統治を始めた。だが、この地域は1347年のペストと、1348年以来のセルビア支配で住民の構成が変わり、ギリシア系の人口が減って、セルビア人や、とくにアルバニア人が定住するようになっていた。ニキフォロスはセルビアとの提携を狙い、マリアと離縁してブルガリア王女テオドラと結婚しようとしたが、ギリシア人もアルバニア人も反発し、立場はかえって危うくなった。マリアは弟のいるミストラスに身を寄せていたが、夫に呼び戻された。

1359年、ニキフォロスは妻の帰国を待たずにアルバニア人の討伐に乗り出し、アヘロオス川の畔の戦いで敗れて戦死した。再建されたイピロス専制公領は、わずか3年で瓦解した。ドゥカス・コムニノス・アンゲロス家に連なる最後の君主であった。未亡人のマリアは修道院に入った母のもとへ送られ、修道女となった。2人の間には、メテオラの修道士アンドニオス・カンダクジノスが生まれたとされるが、マヌイルという名の息子がいたとする説もある。

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