HISTORICAL PERSON · 1359年没

イヴァン2世

モスクワ大公で、イヴァン1世の息子。ドミートリー・ドンスコイの父。兄セミョーンの死後、スズダリ公コンスタンチンと大公位を争って勝利した。死後は9歳の息子が継ぎ、府主教アレクシイが摂政となった。

生涯
1359年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

イヴァン2世は、モスクワ大公であり、ウラジーミル大公でもあった人物である。正式にはイヴァン・イヴァノヴィチといい、「美しき公」とも「温厚公」とも呼ばれる。ドミートリー・ドンスコイの父にあたる。1353年から1359年まで在位した。

1326年3月30日にモスクワで、イヴァン1世(カリター)と妃のヘレナの子として生まれた。7番目の子で、3男にあたる。1339年、父はモンゴル人の支配するジョチ・ウルスの宮廷に、兄のセミョーンとイヴァンを連れて行き、2人をモンゴル人に認めさせようとした。モスクワ公国はモンゴル人に従う立場で、モスクワとウラジーミルの地域の徴税役も務めていたからである。1340年には、イヴァンは1人だけ人質としてジョチ・ウルスの宮廷にとどまった。1341年に父が亡くなると、兄がジョチ・ウルスで大公の位を認められにいくのに同行した。父の死後、イヴァンはズヴェニゴロドとルザの公となった。同じ1341年にブリャンスク公ドミトリーの娘フェオドシヤと結婚したが、彼女は子のないまま1342年の秋に亡くなった。3年のやもめ暮らしののち、1345年に、モスクワ市長を務めたヴァシーリー・ヴェリヤミノフの娘アレクサンドラと再婚し、少なくとも4人の子をもうけた。

1353年に黒死病で兄のセミョーンが亡くなった。セミョーンの2人の息子と弟のアンドレイも相次いで世を去っていたため、イヴァンが一族でただ1人の継承者となり、ジョチ・ウルスに赴いて大公として認められた。大公位をめぐっては、スズダリ公コンスタンチンと争ったが、これに勝ったという。当時のジョチ・ウルスは内紛が激しくなっており、イヴァンはモンゴル人への従属をやめてリトアニアと結ぶことを一時考えた。しかしこの方針はすぐに放棄し、ジョチ・ウルスへの忠誠を保った。

同時代の人々は、イヴァンを平和を好む、無気力な支配者と評した。リトアニアのアルギルダスが、妻の父の都ブリャンスクを奪っても動じず、リャザンのオレグが領内の村々を焼くのを許したともいわれる。兄のセミョーンと同じく、領土の拡大では父や祖父ほどの成果を挙げられなかったが、モスクワの南西にあたるボロフスクとヴェレヤの地域を併合した。大公を助けたのは、モスクワの府主教アレクシイだった。有能な政治家としての資質を備え、公国の事務をよく取りしきったという。この時代に、リトアニアとポーランドの同盟との争いが始まり、モスクワで貨幣の鋳造も始まった。

1359年11月13日にイヴァンは亡くなり、モスクワのクレムリンにある大天使ミハイル大聖堂に葬られた。息子のドミートリーが9歳で大公位を継ぎ、府主教アレクシイが摂政となった。

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