伝記
藤原頼経は、鎌倉幕府の第4代将軍である。九条頼経とも呼ばれる。摂政・関白を務めた九条道家の三男で、母は西園寺公経の娘掄子であった。建保6年(1218年)1月16日に生まれた。寅年・寅月・寅刻の生まれだったことから、幼名を三寅といった。
建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしたが、拒まれた。後鳥羽は、皇子でなければ摂関家の子弟を下してもよいと妥協案を示した。このため幕府は皇子をあきらめ、2歳の三寅を鎌倉に迎えた。三寅の下向から数年のあいだ、北条政子が尼将軍として後見し、将軍の代行をつとめた。承久3年(1221年)に承久の乱が起こり、嘉禄元年(1225年)12月29日に政子が亡くなった。その日、三寅は元服して頼経と名乗った。名は、頼朝の後継者としての正統性を意識した執権北条泰時の意向で決まったと考えられている。翌嘉禄2年(1226年)に将軍宣下を受けた。将軍宣下を求める使者として京に上った佐々木信綱は、頼経の源氏への改姓を求めて春日大社に赴いたが、春日大明神は改姓を許さず、実現しなかった。
寛喜2年(1230年)12月9日、2代将軍源頼家の娘で、16歳年上の竹御所を妻に迎えた。しかし頼経は、政子と義時が担ぎあげた傀儡であり、二人の死後は義時の子泰時とその叔父時房が立場を引き継いだため、将軍としての実権はほとんどなかった。天福2年(1234年)には、竹御所が死産の末に亡くなり、源頼朝直系の源氏将軍の血筋は絶えた。暦仁元年(1238年)には、泰時や時房らを率いて上洛し、正月28日に鎌倉を出て、2月17日に京都に入って10月13日まで滞在した。祖父母や両親、兄弟らと再会したほか、権中納言、検非違使別当を経て一気に権大納言まで昇進し、6月5日には春日大社に参詣した。1239年には、大宮殿との間に、のちの頼嗣が生まれている。
年を重ね、官位が高まるにつれて、北条氏の得宗や執権による政治に反対する勢力が頼経に近づいた。また、父の道家と外祖父の西園寺公経が関東申次として朝廷と幕府の双方に力を振るうことも問題になった。公経が亡くなると、北条氏に反感を抱く道家が関東申次となり、幕政に介入しようとしたため、頼経と執権北条経時の関係は悪くなった。寛元2年(1244年)、頼経は将軍職を嫡男の頼嗣に譲ったが、その後も鎌倉に留まり、「大殿」と呼ばれて幕府内に力を持ち続けた。寛元3年(1245年)7月に出家して、行賀と号した。寛元4年(1246年)5月、反対勢力が頼経を中心に執権を排斥しようとする動きを察知され、執権北条時頼が光時らを粛清した。頼経は京都に送り返され、六波羅の若松殿に移り、父道家も関東申次を罷免されて籠居した。これを宮騒動という。
宝治元年(1247年)には、三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還をはかったが、失敗した。建長3年(1251年)、宝治合戦の残党である了行らの謀叛が起こり、頼経が関わったとされたため、翌年には頼嗣が将軍職を解かれて京都に送られ、疑われた道家もまもなく失意のうちに亡くなった。康元元年(1256年)8月11日、頼経は赤痢のため39歳で京都で亡くなり、翌月には頼嗣も亡くなった。このころ日本中で疫病が猛威を振るっていた。公家の吉田経俊の日記は、「将軍として長年関東に住んだが、上洛の後は人望を失い、ついに早世した。悲しむべし」と記している。
同じ年に亡くなった人物
- マファルダ・デ・ポルトゥガル (1256年没)
- Renaud de Vichiers (1256年)
- マルグリット・ド・ブルボン (ナバラ王妃) (1256年没)
- ペドロ・ノラスコ (1256年)
- バトゥ (1256年没)