伝記
ムハンマド・ビン・トゥグルクは、インド北部を、一時はインド全土を支配したトゥグルク朝の第2代スルターンである。1290年ごろに生まれたともいわれるが、生年ははっきりしない。初代君主ギヤースッディーン・トゥグルクの長男で、父王の時代にはジャウナ・ハーンやウルグ・ハーンと呼ばれた。医学に関心をもち、ペルシア語、ヒンディー語、アラビア語、サンスクリット語、トルコ語など多くの言葉に通じていたという。父とともに多くの戦場に参加して有能な軍人として名を馳せ、1321年には父の命でデカン高原へ遠征し、1323年にカーカティーヤ朝の都ワランガルを包囲して、同朝を滅ぼした。
1325年、父が不慮の事故で亡くなると、その3日後の2月4日に即位した。英主と知られた父の死は敵国を動かし、1327年にはチャガタイ・ハン国の軍が来襲して、デリー北部にまで攻め込んだ。ムハンマドはジェーラムの戦いでこれを撃破し、これに呼応した周辺諸国も滅ぼして、現在のアフガニスタンやカズニー地方まで勢力を広げた。同じ1327年、デカン高原の西にあるデーヴァギリ、のちのダウラターバードへの遷都を命じた。一族や重臣の諫言を無視した強行だった。道中で多くの人が飢えや疲労で亡くなったとされる。1328年にはジャイナ教の僧を敬ったとも伝えられ、他の宗教に寛容な君主ともいわれる。1329年から1330年にかけては、ヒマラヤ山脈を越えてチベットまで遠征した。1329年にはマムルーク朝の庇護下にあったカリフへ使節を送り、代理統治権の承認を得ようとしたが、このときは失敗した。
その後、通貨改革に踏み切ったが、偽造通貨が流行して物価の大混乱を招き、失敗した。1334年には南方のマーバルで反乱が起こり、鎮圧に向かう途中のビーダルで腺ペストが流行して、ムハンマド自身も病み、多くの兵が死んだ。続いてベンガルでも反乱が起こり、1334年とも1335年ともいわれる時期に、周囲の反対が根強かったこともあって、デリーに還都した。数年にわたって都でなくなっていたデリーは荒廃しており、復興には巨額の資金がかかった。モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータは、1334年から1342年までの8年間、トゥグルク朝の役人としてデリーに滞在した。1336年にはヴィジャヤナガル王国が独立し、1337年から1338年のヒマラヤ遠征ではカングラへ向かって、権力の基盤であったマムルーク軍人を多く失った。1343年に再びカリフへ使節を送ると、このときはカリフからの答礼使節がデリーに到着した。1347年にはデカン高原のグルバルガで、アフガン人傭兵出身の地方長官アラー・ウッディーン・ハサンが独立してバフマニー朝を建て、デカンから南インドの領土を失うことになった。
内政の失敗と大規模な軍事行動による軍費の増大は、財政難と人心の離反を招いた。反乱の鎮圧に遠征を繰り返したが、これがかえって財政難を深めた。窮余の一策として農地改革を行ったものの、飢饉が起こって生産力が落ちた。1351年3月20日、反乱鎮圧の遠征中に陣中で亡くなり、従弟のフィールーズ・シャー・トゥグルクが跡を継いだ。「天才か狂人か」と評され、「愚かな賢者」とも呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- 夢窓疎石 (1351年没)
- ヨハンナ・フォン・プフィルト (1351年没)
- Margareta Ebner (1351年)
- レオノール・デ・グスマン (1351年没)
- マスティーノ2世・デッラ・スカーラ (1351年)
同じ地域に関係する人物
- ダニエル・パール (2002年没)
- Amjad Sabri (2016年没)
- アンワル・アーメド・カーン (2014年没)
- Sarabjit Singh (2013年没)
- アフマド・アリー (1994年没)