HISTORICAL PERSON · 1914年没

アウグスト・マッケ

ドイツの画家。前衛美術運動「青騎士」に参加し、単純化された形態と幻想的な色彩で独自の様式を築いた。27歳で戦死した。

生涯
1914年没
死亡地
フランス共和国(マルヌ県 / Souain-Perthes-les-Hurlus)
出生地
ドイツ連邦共和国(メシェデ)
出典
世界地図
フランス共和国(マルヌ県)

伝記

アウグスト・マッケは、1887年1月3日にドイツ西部ヴェストファーレン地方のメシェデで生まれ、1914年9月26日に戦死した、20世紀初頭のドイツの画家である。1910年代にカンディンスキーやマルクらとともに、前衛美術運動「青騎士」のグループに参加して活動した。27歳で戦死したため、活動の期間は数年間にすぎなかったが、単純化された形態と幻想的な色彩を特色とする作品は、表現主義とも抽象絵画とも一線を画した独自の様式を築いた。父アウグスト・フリードリヒ・ヘルマン・マッケは土木技師で、絵や音楽にも秀でていた。生まれて間もなく一家はケルンに、1900年の終わりにはボンに移り、マッケはボンの実科ギムナジウムで学んだが、頭の中には絵のことしかなく、学校への意欲は乏しかった。1903年に、通学路で未来の妻エリーザベト・ゲルハルトと出会い、彼女の兄の肖像を描くことを口実にして、その家に出入りするようになった。

1904年から2年ほどデュッセルドルフの美術アカデミーで学び、1905年には装飾美術学校の夜間講座にも通った。アカデミーでの課題より、身近な日常の主題を自由に描ける後者のほうが、彼の性に合った。1906年にはアカデミーを離れ、1907年に美術収集家ベルンハルト・ケーラーの経済的援助を得てパリに滞在した。エリーザベトは、このケーラーの姪であった。パリではセザンヌの作品に触れ、マネやドガ、ロートレック、スーラ、ピサロの作品を見て、印象派に魅了され、パリの暮らしを描いた多くのスケッチを残した。パリのあと、ベルリンで印象派の画家ロヴィス・コリントのアトリエに数か月通った。1908年10月に兵役に就き、1909年に除隊してエリーザベトと結婚し、新婚旅行でパリを訪れ、有名な『帽子をかぶった自画像』を描いた。同年、テーゲルンゼーに移り、静かな田舎で200点にのぼる絵を描いた。これは最初の頂点とされる。

初期には印象派やセザンヌの影響を受けていたが、転機は1910年、「青騎士」の中心人物の一人フランツ・マルクに出会った時期に訪れた。ミュンヘンで初個展を開いていたマルクに会い、翌年にはマルクの住むジンデルスドルフに滞在した。1911年に夫妻はボンへ戻り、そのころから翌年にかけて、クレーやドローネーと知り合った。ドローネーの色彩の影響が強く感じられる。カンディンスキーとともに1912年の年刊誌『青騎士』の編集に積極的に加わり、民族学的な図版を集め、アフリカの仮面の研究について書いた。1911年と1912年の2回の「青騎士」展に参加し、同年のケルンのゾンダーブント展、ベルリン新分離派展、1913年の最初のドイツ秋季展などにも出品した。

1913年秋から翌年にかけて、スイスのトゥーン湖畔に滞在して制作した。1914年4月には、クレーとスイス出身の画家ルイ・モワイエとともにチュニジアを旅した。わずか2週間ほどの滞在だったが、チュニスやハマメット、カイルアンを巡り、鮮烈な色彩に強い衝撃を受けて、代表作に数えられる数十点の水彩画を残した。この旅はクレーの画風を変える契機にもなった。帰国後、新たな画風を模索していたが、同年8月に第一次世界大戦が始まって出征し、9月26日にシャンパーニュの前線で戦死した。最後の絵は『別れ』と題され、予言的だといわれる。

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