伝記
ベルナルド・ダッディは、ルネサンス初期のイタリアの画家である。生まれた年は不明で、1280年頃とも1290年頃ともいわれる。フィレンツェ近郊のムジェロ渓谷にある、ボルゴ・サン・ロレンツォのプリチャーノに近いサルトの生まれとされる。巨匠ジョットの工房で、タッデオ・ガッディ、ステファノ・フィオレンティーノ、マーゾ・ディ・バンコといった、師の後期の様式を担うことになる画家たちとともに働いた。名前が最初に記録に現れるのは1312年で、1319年には医師・薬種商組合の登録簿に名が記されている。
最初の確実な作品は、1328年に制作された三連祭壇画である。聖母子と聖者たちを描いたもので、もとはオンニッサンティの修道院にあり、現在はウフィツィ美術館に収められている。このころ、サンタ・クローチェ聖堂のプルチ礼拝堂に、聖ステファノと聖ラウレンティウスの物語を描いたフレスコ画も手がけたとされる。ダッディの絵はジョットのような空間の広がりや鮮やかな色づかいは用いず、祭壇画に装飾的な優雅さを与える方向に向かった。シエナ派のアンブロージョ・ロレンツェッティに近い洗練された描き方を見せ、色や線の使い方はしだいに複雑で精緻になっていった。初期の作品にはジョットの弟子たちとの近さがうかがえ、のちの作風にはマーゾ・ディ・バンコの影響もみられる。
1330年代には作品が数多く残る。1333年の日付をもつ聖母子と聖人たちの祭壇画はフィレンツェのビガッロの開廊にあり、1334年には「フィレンツェのベルナルドゥス」と署名して聖母子と天使と聖人たちを描いた。1335年には、多翼祭壇画の下段を飾る受胎告知の場面も描いている。1336年から1340年にかけては、聖母の結婚の場面や、サン・パンクラツィオ教会の多翼祭壇画を手がけた。1339年には聖ルカ組合の顧問となった。1340年から1345年ごろには、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のために聖母戴冠を描いている。小さな作品で特に成功をおさめ、持ち運べる祭壇画の発展にも貢献したという。
ダッディは教会などの機関からも市民階級からも大きな注文を受け、フィレンツェでも屈指の名声と富を得た画家になった。ジョットの死後は、フィレンツェで最も重要な絵画工房の長だったとみられる。ただし工房には助手や協力者がいて、ダッディ自身の手を見分けることはほとんど不可能とされる。遺作は1347年に着手されたと信じられている。
ダッディは1348年に黒死病で世を去った。ルッバッラのサン・ジョルジョ教会の多翼祭壇画には1348年の日付があるが、同じ年の8月付のフィレンツェの文書には、すでに故人として名が挙がっている。後世、フランコ・サッケッティは『トレチェント・ノヴェッレ』で彼をジョットの最良の弟子の1人として回想した。一方、ジョルジョ・ヴァザーリは『画家・彫刻家・建築家列伝』でほとんど触れず、サンタ・クローチェ聖堂のフレスコ画しか知らないまま、彼をスピネッロ・アレティーノの弟子とし、1380年に没したと誤って記した。
同じ年に亡くなった人物
- シャムスッディーン・ムハンマド・ザハビー (1348年)
- ビアンカ・ディ・ボルゴーニャ (1348年没)
- マーゾ・ディ・バンコ (1348年没)
- バルラーム (1348年)
- ブランシュ・ド・ヴァロワ (1348年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョバンニ・バッティスタ・アミーチ (1863年没)
- ウンベルト・ベッティ (2009年没)
- ベネデット・ダ・マイアーノ (1497年没)
- フランチェスコ・ペセリーノ (1457年没)
- フィリッポ・パルラトーレ (1877年没)