伝記
ラウルは、1320年に、ロレーヌ公フェリー4世とエリーザベト・フォン・エスターライヒの息子として生まれた。「勇敢公」と呼ばれたという。父が亡くなったとき、ラウルはまだ9歳であった。父が生前に作った遺言により、母エリーザベトが1334年まで公領の摂政を務めることが定められていた。1329年には、ポンタ=ムッソンでバル伯エドゥアール1世とマリー・ド・ブルゴーニュの娘エレオノールと最初の結婚をしたが、エレオノールは1332年に亡くなった。1334年には、ブロワ伯ギー1世・ド・シャティヨンと、フランス王フィリップ6世の妹マルグリット・ド・ヴァロワの娘マリー・ド・シャティヨンと再婚した。この結婚によって、ロレーヌとフランス王国との結びつきは強まった。
1337年、バル伯アンリ4世が、ロレーヌ公に対し上級領主への敬意を払うことを拒み続けていた。ラウルはバル伯の領地ポンタ=ムッソンの周辺を荒らし、報復としてアンリ4世は公領の西部を荒廃させた。ラウルがバロワを攻め返したのち、戦争はフィリップ6世の介入で終わった。1339年には、ラウルの治世のもとでサン=ジョルジュ・ド・ナンシー聖堂参事会教会が建てられ、1340年(または1341年)にはナンシーの定期市が設けられた。
ラウルは、イングランド王エドワード3世と対峙するフランス王を助けるため軍を送り、トゥルネーの包囲を解く助けとした。フランスとイングランドの休戦があると、その機会にカスティーリャ王アルフォンソ11世とともにグラナダ王国と戦い、1340年11月3日のジブラルタルの戦いでは目覚ましい働きをした。フランスに戻ると、ブルターニュ継承戦争で義兄のシャルル・ド・ブロワを支援した。
1342年には、メス司教アデマール・ド・モンテイユとの間で領土をめぐる争いが起きた。この争いはボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクの仲介を受け、2段階で解決された。まず1343年2月1日にバル伯とロレーヌ公の間で合意がなされ、1344年4月12日にはロレーヌ公とメス司教の間でも合意が結ばれた。1343年には、マリーとの間に双子の娘が生まれたが、2人とも早世した。マリーは持参金としてピカルディのボーヴとギーズをもたらし、ギーズ伯領はこれ以降ロレーヌと再び結びついた。
その後ラウルはフランス王の側に戻り、1346年8月26日のクレシーの戦いで戦死した。この年にはマリーとの間に息子ジャンが生まれており、ジャンは1390年までロレーヌ公を務めることになる。オーギュスタン・カルメは、ラウルの死によってロレーヌは当時もっとも勇敢で賢明な君主の1人を失ったと記している。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ・ド・ブルゴーニュ (1323-1346) (1346年没)
- カザン (チャガタイ家) (1346年没)
- カトリーヌ・ド・ヴァロワ=クルトネー (1346年没)
- 周達観 (1346年)
- ヨハン・フォン・ルクセンブルク (1346年没)
同じ地域に関係する人物
- ギヨーム1世 (ノルマンディー公) (942年没)
- ジャン=フランソワ・ド・ラ・バール (1766年没)
- フロリス4世 (ホラント伯) (1234年没)
- ヘンリー・マッキントッシュ (1918年没)
- ガブリエル・ノーデ (1653年没)