HISTORICAL PERSON · 1346年没

カトリーヌ・ド・ヴァロワ=クルトネー

名目上のラテン帝国女帝で、ターラント公フィリッポ1世の妃。夫の死後もラテン帝国の権利を保持し、アカイア公国摂政やケファロニア総督を務め、亡命したエピロス専制侯ニキフォロス2世の領地奪回を支援した。

生涯
1346年没
死亡地
イタリア共和国(ナポリ)
出生地
イタリア共和国(シエーナ県 / シエーナ)
出典
世界地図
イタリア共和国(シエーナ県)

伝記

カトリーヌ・ド・ヴァロワ=クルトネーは、1303年4月15日以前に、ヴァロワ伯シャルルとカトリーヌ・ド・クルトネーの長女として生まれた。父方の祖父はフランス王フィリップ3世であり、後にフランス王となるフィリップ6世は兄にあたる。母カトリーヌは、ギリシャの十字軍国家でラテン帝国の女帝と認められていた人物である。ラテン帝国はすでに1261年にニカイア帝国に奪われており、この称号は名目上のものにすぎなかった。母は1307年に亡くなり、カトリーヌは同年10月11日に女帝の権利を継承した。まだ幼かったため、1325年に父シャルルが死去するまで、その権利は父の管理下に置かれた。

生まれて間もない時期に、のちのブルゴーニュ公ユーグ5世と婚約したが、この婚約は1312年に破棄された。父シャルルはコンスタンティノープルでの権力回復に足るだけの力を持つ婿を望み、ナポリ王ロベルトの弟でターラント公のフィリッポ1世を相手に選んだとされる。1313年7月、カトリーヌはこのフィリッポ1世と結婚した。カトリーヌは夫を名目上のラテン皇帝フィリップ2世とし、夫婦の間にはロベルト、ルイージ、マルゲリータ、フィリッポ2世の4人の子が生まれた。

1332年12月23日にフィリッポ1世が死去したのちも、カトリーヌはラテン帝国に対する権利を保持した。ターラント公領は、生存する最年長の男子ロベルトが継いだ。ターラント公領の当主はナポリに住むことになっていたため、カトリーヌはナポリ王宮で影響力を持つようになった。彼女の宮廷は、ナポリ王ロベルトとその敬虔な妃サンチャ・デ・マヨルカの宮廷よりも世俗的であったという。1333年、息子ロベルトは叔父のアカイア公グラヴィーナ伯ジョヴァンニとの合意によってアカイア公領を手に入れた。しかし、ロベルトはまだ13歳で単独の統治には若すぎたため、カトリーヌが共同統治者となった。当初は任命したバイイを通じて支配していたが、1338年夏、カトリーヌは艦隊を召集して家族をアカイアに連れて行き、自らアカイアの政治に加わった。このころ、エピロス専制侯ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニの亡命を受け入れ、ニキフォロス2世が東ローマ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスから自らの領地を取り戻すのを支援した。

1341年に息子ロベルトが成人すると、カトリーヌがアカイアにとどまる必要はなくなった。彼女はケファロニア総督となり、死ぬまでの5年間この地を統治した。ナポリでは、ジョヴァンナ1世の治世に、女王の妹マリアとドゥラッツォ公カルロの結婚が持ち上がった。マリアはナポリ王位の推定継承者であり、ドゥラッツォ家はターラント家のライバルであったため、カトリーヌはこの結婚に反対した。結婚は成立し、カトリーヌとその家族は国庫の現金で補償を受けた。その後、ジョヴァンナ1世の最初の夫であるカラブリア公アンドレアが殺害されると、女王はターラント家から新しい結婚相手を探した。カトリーヌは長男ロベルトではなく、次男ルイージを推した。またロベルト1世の庶子で陰謀の疑いをかけられていたカルロとその息子ベルトランドを保護し、2人の引き渡しを求められても拒み、もし2人が有罪なら自分で罰すると述べた。

カトリーヌは1346年10月にナポリで死去し、サン・ドメニコ・マッジョーレ教会に埋葬された。葬儀はジョヴァンナ1世が取り仕切ったとされる。ラテン皇帝の称号は長男ロベルトに移り、その没後は末子フィリッポ2世、さらに娘マルゲリータの子ジャック・デ・ボーへと受け継がれた。

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