伝記
アシュラフ・クジュクは、エジプトのバフリー・マムルーク朝のスルタンで、1341年8月から1342年1月まで在位した人物である。本名をアラー・アッディーン・クジュクといい、1334年に、スルタンのナースィル・ムハンマドと、その妻アルドゥのあいだに生まれた。アルドゥはタタール人とも、モンゴル系ともいわれる。父の子としては、二人目に即位したスルタンにあたる。
1341年8月、クジュクはまだ幼く、即位したときの年齢は5、6歳とも、6歳とも、7歳ともいわれる。彼を玉座に据えたのは、エジプトの実力者であった将軍クースーンである。クースーンは、クジュクの父ナースィル・ムハンマドの側近だった人物で、クジュクの異母兄である前スルタンのアブー・バクルを逮捕して処刑したのちに、クジュクを立てたとされる。クースーンは摂政としてクジュクの後見にあたり、実際の権力を握った。副スルタンの高位は将軍アイダグミシュが辞退したため、クースーンが引き受けたという。クースーンはカラクにいた別の異母兄アフマドを警戒し、カラクへ軍を送ったが、指揮官のカトルーブガーらは、アフマドを捕らえる代わりに、彼に忠誠を誓い、王の称号アル・マリク・アン・ナースィルを贈った。やがて、亡き父のマムルークたちが、自分たちはクースーンのマムルークではなくスルタンのマムルークだと公言して反乱を起こし、1341年12月の末にクースーンは失脚して殺された。クジュクも、その数週間後の1342年1月21日に廃位され、年長の異母兄であるナースィル・アフマドが代わって即位した。
退位後のクジュクは、カイロの城塞の後宮で母の世話のもとに戻った。異母兄のサーリフ・イスマーイールの治世のあいだ、イスマーイールとその母は、クジュクを王位をうかがう可能性のある対抗者とみていたという。1345年8月、イスマーイールは数か月来の病のために没した。イスマーイールの母は、クジュクの母が妖術を使ってイスマーイールを病にしたと責めた。その結果、クジュクは1345年9月、11歳で殺された。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン・ド・モンフォール (1345年没)
- ギヨーム2世 (エノー伯) (1345年没)
- アレクシオス・アポカウコス (1345年)
- サンチャ・ダラゴーナ (1345年没)
- ヤコブ・ヴァン・アルテベルデ (1345年没)
同じ地域に関係する人物
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- ラシード・リダー (1935年没)
- ヤクーブ・ブン・キッリス (991年没)
- アーディド (1171年没)
- ナッサー・エル・ソンバティ (2013年没)