伝記
ゲオルギオス2世は1890年、アテネ郊外のタトイで生まれた。父はギリシャ王太子コンスタンティノス、母はドイツ皇帝フリードリヒ3世の娘ゾフィーで、六人きょうだいの長男だった。祖父ゲオルギオス1世の名を受け継ぎ、内向的で距離を置く性格だったと評される。18歳でプロイセンに渡って軍事訓練を受け、帰国後はアテネの陸軍士官学校で学んだ。1909年に歩兵少尉となったが、同年の軍事クーデター後に王族の軍務は問題視され、王族は軍を離れた。バルカン戦争では第一ギリシャ歩兵連隊に従軍した。1913年に祖父が亡くなると王太子となり、スパルタ公の称号を得た。
第一次世界大戦中、親独的な父王コンスタンティノス1世と、連合国の支援を受ける首相エレフテリオス・ヴェニゼロスが対立した。1917年に父が退位すると、ゲオルギオスが後継候補だったが、王位には就かず父とともにスイスへ亡命し、弟アレクサンドロスが国王となった。1920年、弟が破傷風で急死すると父が復位し、ゲオルギオスもともに帰国した。1921年、ルーマニア王フェルディナンド1世の娘エリサベタとブカレストで結婚した。母親同士がいとこで、二人は又いとこにあたったが、子どもはなく、1935年に離婚した。
希土戦争での敗北後、父は再び退位し、ゲオルギオスは1922年9月27日に王位を継いだ。最初の在位は1924年3月25日までだった。1923年の王党派のクーデターが失敗すると、政府は議会が政治体制を決める間、国を離れるよう求めた。ゲオルギオスはルーマニアやイギリス、母の住むフィレンツェで亡命生活を送った。ギリシャは1924年3月に共和制を宣言し、王政を廃止して、ゲオルギオスの王位と国籍を剥奪した。1935年、君主制復活を支持する国民投票の後、ゲオルギオスは帰国し、同年11月に王位に戻った。翌1936年には首相イオアニス・メタクサスの自己クーデターを支持し、民族主義と反共産主義を掲げる8月4日体制と呼ばれる権威主義的な独裁体制が成立した。
第二次世界大戦が始まるとギリシャは中立を保ったが、1940年、イタリアのムッソリーニがイタリア軍の自由行動権を求めると、親英派のゲオルギオスとメタクサスは拒否した。イタリアから宣戦布告がなされ、ギリシャは連合国側で参戦した。メタクサスの指揮とイギリス軍の支援でイタリア軍の進撃を押しとどめ、連合国側で戦争を続けたが、翌年4月6日、ドイツ軍がブルガリア国境から侵入し、23日にはアテネを占領した。ゲオルギオスはクレタ島へ移り、軍が休戦を決めても国民や政府、王の意思は拘束されないとして徹底抗戦を表明した。しかし5月20日、同島にもドイツ軍が上陸したため、エジプトを経てイギリスへ亡命した。ロンドンでは亡命政府を率いた。
戦後、1946年9月1日の国民投票で王政が支持されると、ゲオルギオスは同月28日にアテネへ戻った。王政やイギリス軍の駐留に反対する勢力との内戦が再燃する中、1947年4月1日、宮殿で心臓発作を起こして死去した。56歳だった。子どもがいなかったため、弟パウロスが王位を継いだ。ゲオルギオスは、エディンバラ公フィリップの父方のいとこにもあたる。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- ディミトリオス・ヴィケラス (1908年没)
- マイケル・カコヤニス (2011年没)
- Orsippus (紀元前760)
- ゲオルギオス・パパドプロス (1999年没)
- アンティステネス (紀元前360年代没)