伝記
ベネディクトゥス12世は、1285年ごろに生まれ、1342年4月25日にアヴィニョンで没したローマ教皇(在位1334年〜1342年)で、アヴィニョン捕囚の時期の教皇である。フランス出身で、本名はジャック・フルニエという。フォワ伯領の貧しい家の出で、南仏アリエージュ県のソヴェルダン近郊のカンテに生まれ、父はパン屋、あるいはより確からしくは粉屋だったとされる。母方の叔父アルノー・ノヴェルはシトー会の修道士で、フォンフロワード修道院の院長を務め、のちに枢機卿となった人物で、この叔父が幼いジャックの教育を引き受けた。叔父は彼をフォンフロワードの修道院に招き入れ、さらにパリのサン・ベルナール学寮に送った。ジャックは大学に通い、神学博士となった。
1311年から1317年までフォンフロワード修道院の院長を務め、叔父の後を継いだ。学識と厳格さで知られ、パミエの司教、のちにミルポワの司教に任じられた。パミエ司教としての在任期間は、山間の地に逃れたアルビジョア派の異端者を、効率よく追及したことに特徴づけられる。彼は、教会会議の決定を利用して、本来はドミニコ会の管轄だった異端審問の法廷に司教として加わり、審問を主導した。尋問は巧みに自白を引き出すもので、その土地と言葉をよく知っていたことが助けになったという。拷問は散発的に用いた。この過程で5人が火刑に処せられ、残りの多くは各種の贖罪や無罪放免となったとされる。尋問の記録は大部の登録簿として残り、325葉の羊皮紙の写本がバチカン図書館に保存されている。これを用いて歴史家のル・ロワ・ラデュリが書いた『モンタイユー』は、1975年の刊行以来、多くの国で成功をおさめた。その熱意に報いて、サン・プリスクの枢機卿に任じられた彼は、シトー会の白い修道服を着続けたので、「白い枢機卿」と呼ばれた。
前教皇の死後の枢機卿団のコンクラーヴェでは、教皇庁の所在地をアヴィニョンとするかローマとするかをめぐって、激しい争いがあり、結局、ナポレオーネ・オルシーニ枢機卿の推す白い枢機卿が選ばれた。選出が決まるとすぐに、霊的派やフラティチェリを断罪し、シトー会の守護聖人にちなんだ名を選んで、アヴィニョンのドミニコ会教会で戴冠した。彼は、重く病んだ体の持ち主だったが、峻厳で慎重、原則に忠実で、教会の金銭には倹約家であった。就任後は、財務官のジャン・ド・コジャルダンに教皇庁の改革を命じ、続いて、規律のゆるんだ修道会の改革に取り組み、聖職禄の授与に注意を払い、縁者への優遇を退け、大規模な建築を行った。賄賂などの悪弊を禁じ、司教には司教区に居住するよう求めた。またアヴィニョン教皇庁宮殿の建設を始めた。
しかし、前教皇ヨハネス22世が抱えていた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世との対立は収まらず、1338年、フランクフルトの帝国議会では、ローマ王選挙で選ばれた王は同時に皇帝であり、教皇の戴冠は必要ないと宣言された。この考えは、のち1356年の金印勅書で文章化されていく。また、前教皇が異端として破門したフランシスコ会士で神学者のオッカムのウィリアムを、彼もまた破門に処した。オッカムは「必要なしに多くのものを定立してはならない」というオッカムの剃刀で知られる。
同じ年に亡くなった人物
- ギー1世 (ブロワ伯) (1342年没)
- チェゼーナのミケーレ (1342年)
- ロベール3世・ダルトワ (1342年没)
- ピエトロ2世 (シチリア王) (1342年没)
- Yolande Palaeologina of Montferrat (1342年)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・アンリ・ファーブル (1915年没)
- アデライード・ダンジュー (1026年没)
- マイスター・エックハルト (1328年没)
- アメデーオ5世・ディ・サヴォイア (1323年没)
- インノケンティウス6世 (ローマ教皇) (1362年没)