伝記
ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルは、1823年12月21日に南フランスのアヴェロン県の小さな村サン・レオンで生まれた博物学者である。教科書作家、学校教師、詩人としても業績を遺し、昆虫の行動研究の先駆者として、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。作曲活動もし、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても知られる。父は定職に就けず、様々な手伝い仕事を転々とし、母は妻の実家の経済的援助をあおぎ、婦人用皮手袋作りの内職で生計を立てるなど、一家の生活は貧しかった。4歳から7歳までの間、弟の育児や母の内職を妨げないために、40キロほど離れた父の郷里マラヴァルの祖父の家に預けられた。自然豊かな環境で育ったことが、その後の人生に影響を与えたといわれている。7歳でサン・レオンに戻り、学校でフランス語の読み書きを身につけた。
1833年、10歳のときに、一家はアヴェロン県の県庁所在地ロデズに出てカフェを開業した。両親は教育に理解があり、司祭のミサを手助けして聖歌隊の役を務めることを条件に学費が免除されたため、中学校に進学し、ラテン語とギリシア語で優秀な成績を修めた。しかしカフェ経営は1年足らずで失敗し、父はその後も各地を転々としては、カフェを開いて失敗を重ねた。ファーブルはトゥールーズの神学校で再び授業料免除の入学を認められたが、15歳で一家は離散状態となり、レモン売りや鉄道敷設工事などをしながら、独学で学問を続けた。1840年にアヴィニョンの師範学校が学生を募集していると知って、入学試験を首席で合格し、3年後に首席で卒業した。1842年の春に小学校上級教員免状を取り、独学で数学と物理、化学も習得した。
カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、1844年、21歳で、2歳年上の同僚マリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚した。両親はこの結婚に強く反対した。最初の娘と息子は、幼いうちに亡くしている。コルシカ島に渡り、数学を研究しながら、昆虫学に傾倒していった。アヴィニョンのリセで、物理化学の教師を、1853年から1871年まで18年間勤めた。ここで彼は、数学教授資格の受験を捨てて自然科学の道を選び、1854年に自然理学士号の試験に挑んで、最高の出来で合格した。博士論文の主題は、多足類における生殖器官と発達の解剖学的研究で、パリで口頭審査を受け、博物学の博士号を取得した。
1855年には、『ジガバチ科の本能と変態の研究』でフランス学士院のモンティヨン賞を受賞した。この論文は、あるハチがタマムシを狩る習性についての研究を補うものだった。先行研究者のデュフールは、獲物のタマムシを不動のまま生きて保てるのは「保存液」によるものだと推測していたが、ファーブルは緻密な観察から、神経中枢が破壊されて麻痺していることを突き止めた。デュフールは感心して激励の手紙を書き、二人の文通は、デュフールが亡くなる1865年まで続いた。1856年から1857年にかけては、観察日誌に詳しい記録を残し、のちの『昆虫記』の神髄となった。菌類にも関心を持ち、トリュフ栽培について講演もした。1865年6月には、蚕の病気に悩むパスツールが、昆虫学の問題の意見を求めて彼を訪ねた。1915年10月11日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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