伝記
ジョン・ロジー・ベアードは1888年、スコットランドのヘレンズバラに生まれた。地元の学校に通った後、グラスゴーの技術学校を経てグラスゴー大学に進んだが、第一次世界大戦で学業が中断され、卒業には至らなかった。電気技術者、発明家として、動く画像を電気信号に変えて送る方法に取り組んだ。テレビの発展には多くの発明家が関わったが、ベアードは光電池の性能を生かし、送信信号を調整する工夫によって、機械式の方式で生の映像を伝える実験を進めた。
1923年初め、病気がちだったベアードはイングランド南部のヘイスティングスに移り、作業場を借りた。古い帽子箱や鋏、かがり針、自転車のライトのレンズ、茶箱など、身近な品を組み合わせてテレビ装置を作った。画像を細かく走査する仕組みには、ポール・ニプコーが考案した円板を用いた。1924年には半機械式の装置を雑誌で公開し、物体の動く影を映した。作業場を借り続けられなくなるとロンドンのソーホーに移り、百貨店で一般向けの実演を行った。
1925年10月、実験室で初めて灰色の濃淡を持つ画像の送受信に成功した。腹話術人形の頭を撮影した後、事務員ウィリアム・テイントンを連れてきて人間の顔も映した。伝送したのは走査線30本、毎秒5枚の画像だった。翌年1月にはロンドンの王立研究所で動く映像の公開実験を成功させ、記者たちに生映像の送受信を示した。この時点で伝送速度は毎秒12.5枚に上がっていた。1928年には三原色の光を使ったカラーテレビと立体テレビの公開実験も行った。カラー方式では三つのフィルターを通した光を送り、受信側で三原色の光源を点滅させて色を再現した。
ベアードは長距離伝送や放送の実用化にも取り組んだ。1927年、ロンドンとグラスゴーを結ぶ約705キロの電話回線で映像を送り、翌年にはロンドンからニューヨークへの伝送を試みた。ロンドン・グラスゴー間の実験の約1か月前には、ベル研究所がニューヨークとワシントン間で映像を送っていた。ベアードは会社を設立し、英国放送協会向けの最初のテレビ番組を制作した。1931年にはダービー競馬を初めてテレビで生中継した。英国放送協会は1929年からベアード方式を試験放送に使ったが、1936年11月には走査線405本の電子式方式へ切り替えると決めた。機械式の装置はカメラが大きく動かしにくく、放送用として扱いづらかった。ベアードは映画フィルムを走査して送る方法で対抗したものの、試験中の1936年末にスタジオが火災で壊れ、翌年に試験は終了した。
その後もベアードは電子式テレビや色彩の再現を研究した。1939年には色付きフィルターを回転させる方式のカラーテレビを公開し、1941年には走査線500本の立体テレビの特許を取得した。1928年には円板と蓄音機を組み合わせた録画装置を作り、走査線30本の映像をレコードに記録した。光ファイバーや赤外線暗視装置なども開発した。1944年8月には走査線600本の完全電子式カラーテレビ受像機を公開した。戦後の放送再開に向けて走査線1000本の電子式カラー方式も提案したが、実現には至らなかった。1944年末からイングランド南東部のベクスヒルに住み、1946年2月に発作を起こした。同年6月14日、自宅で死去した。
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