伝記
ユリウス・シュトライヒャーは、1885年2月12日、バイエルン王国南部に生まれたドイツの政治家、ジャーナリストである。父は教師のフリードリヒ、母はアンナで、カトリックの家庭に生まれた九人きょうだいの一人であった。父と同じく小学校の教師となり、1909年にニュルンベルクに移った。第一次世界大戦前はドイツ社会民主党の党員だった。1913年にパン屋の娘クニグンデ・ロートと結婚して二人の息子をもうけたが、妻とは1943年に死別した。大戦では陸軍に従軍し、危険な任務を自ら引き受けて戦功を立て、少尉まで昇進して一級鉄十字章を授与された。戦後はフランケン地方で反ユダヤ主義政党を創設した。
1922年10月、ミュンヘンでヒトラーの演説を聞いてその虜になり、「自分の党に属する2000人の党員を贈り物として捧げたい」と申し出たといわれる。部下たちとともにナチ党に入党し、ニュルンベルクに最初の支部を創設して支部長となり、フランケン地方の町々に13の支部が作られていった。ヒトラーの信任は厚く、北バイエルンにおける総統代理に任じられたが、政敵と争って裁判沙汰になることが多く、党に厄介事をもたらした。1923年5月に反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー』を創刊し、毎号ページの下段に歴史学者トライチュケの言葉を掲げ、過激な見出しやでっちあげの記事でユダヤ人を誹謗中傷した。あまりに下品な内容に、党幹部や国防軍の将校、ナチ支持者の財界人からも批判が上がった。発行部数は1923年の2500部から、1935年に6万5000部、1937年には50万部に達した。
1923年11月のミュンヘン一揆に参加して拘留され、ニュルンベルク市から教職の停職処分を受けたが、すぐに釈放されて政治活動を再開した。ナチ党の偽装組織「大ドイツ民族共同体」に加わり、まもなくその指導者の一人となった。この組織は議会政治に反対し、1924年12月の地方選挙ではニュルンベルク市議会に6議席を得て、彼も市議会議員となった。ヒトラーが出獄して1925年2月にナチ党を再建すると直ちに参加し、その指揮に服した。1925年にニュルンベルク=フュルト大管区指導者に任じられ、1929年からは拡張されたフランケン大管区の指導者となって、バイエルン州議会議員にも当選した。選挙戦では宣伝に全力を尽くし、とくに激しく行ったのが反ユダヤ主義の扇動で、ニュルンベルクの党事務所はドイツでも有数の暴力的反ユダヤ主義の拠点となった。
1933年1月にヒトラー内閣が発足しても閣僚職は与えられなかったが、4月1日にはボイコット委員会の委員長として、全ドイツでユダヤ人商店の不買運動を指揮した。1934年に突撃隊の名誉隊員となり、1938年には子ども向けの反ユダヤ本を出した。しかし1940年、ゲーリングの妻エミーがユダヤ人と交友したことや、ゲーリング本人を中傷する記事を『シュテュルマー』に載せたため、ゲーリングが設置した査問委員会が不正行為を次々と明らかにし、「人間の指導者として不適格」と結論づけた。ヒトラーにも見捨てられて大管区指導者を罷免され、以後はニュルンベルク近くの酪農場で暮らした。1945年5月23日、アメリカ軍に発見されて逮捕され、ニュルンベルク裁判で「侵略戦争の共同謀議」と「人道に対する罪」で起訴された。絞首刑の判決を受け、1946年10月16日に刑が執行された。
同じ年に亡くなった人物
- Patriarch Benjamin I of Constantinople (1946年没)
- ジョセフ・ステラ (1946年没)
- ミラン・ネディッチ (1946年没)
- サーラシ・フェレンツ (1946年没)
- フアン・バウティスタ・サカサ (1946年没)
同じ地域に関係する人物
- ハインリヒ・ヘルト (1938年没)
- カール・ヴァレンティン (俳優) (1948年没)
- ヴィクトル・トゥールジャンスキー (1976年没)
- アントン・コーベルガー (1513年没)
- マックス・エマヌエル・イン・バイエルン (1893年没)