伝記
新田義貞は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活動した御家人・武将である。本姓は源氏で、河内源氏義国流の新田氏本宗家の8代目棟梁にあたる。上野国新田荘の御家人の家に生まれ、父は7代当主の新田朝氏である。生年ははっきりせず、越前藤島で戦死したときに37歳から40歳だったといわれることから、1301年前後と考えられている。同族の里見氏から入った養子だとする説も有力だが、確実とはいえない。出生地についても新田荘内の由良、同じく反町館、碓氷郡の里見郷という3説があり、定まっていない。少年時代を伝える史料は乏しいが、新田荘は雷雨や空っ風の激しい土地で、広い荒地は一族が弓などの武芸を鍛える場になっていた。義貞はそこで武芸を磨き、利根川で水練に励んで育ったと考えられている。
1318年1月2日に父の朝氏が45歳で没し、義貞は家督を継いだ。元服はこの年以前とみられる。そのころの新田宗家の地位は低かった。新田荘60郷のうち数郷を持つにすぎず、義貞自身も無位無官で、北条得宗家との関係も悪く幕府から冷遇されていた。同じ河内源氏の足利氏とは、名声も官位も領地もはるかに差があった。この年の10月、義貞は長楽寺の再建のために所領の一部を売却したが、12月に幕府が出した安堵状は売主を新田「貞義」と誤記しており、幕府での扱いの軽さがうかがえる。この売却は、世良田宿の有力者を介して長楽寺と門前の世良田宿の庇護者となり、経済的な力を握ろうとしたものとみられている。義貞は得宗被官の安東氏から妻を迎え、衰えた宗家の勢力の回復を図っていたと考えられている。
1331年に元弘の乱が始まったとき、義貞は大番役として京にいた。翌年に楠木正成が河内で挙兵すると、幕府の命で上野の御家人らとともに討伐に向かい、千早城の戦いに加わった。ところが1333年3月、病気を理由に無断で新田荘へ帰ってしまう。『太平記』は、義貞がこの間に護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受けたと描くが、研究者の間では作り話だとする見方と、受け取った可能性はあるとする見方がある。決定的な原因は、4月に幕府が楠木討伐の軍資金として有徳銭の徴収を命じ、使者の金沢親連と黒沼彦四郎が、新田荘に6万貫文をわずか5日で納めるよう迫ったことだった。取り立ては収奪のようになり、義貞は憤激して金沢を幽閉し、黒沼を斬り殺した。幕府は報復として、義貞に近い江田行義の所領を長楽寺に寄進する文書を出した。まもなく新田討伐の軍勢が差し向けられるという情報も入った。『太平記』は、義貞らが最初は防戦の方針だったが、弟の脇屋義助の演説で積極策に転じたと描いている。5月、義貞はついに挙兵した。日付は5月8日説が有力とされるが、5日や中旬とする記録もある。
義貞は足利尊氏の名代である足利千寿王と合流して鎌倉討伐軍を指揮し、東勝寺合戦で北条得宗家を滅ぼした。建武の新政ののちには尊氏と対立し、建武の乱では後醍醐天皇から事実上の官軍総大将に任じられたが、箱根や湊川の合戦で敗れた。その後は恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前を拠点に活動したが、1338年に藤島で戦死した。
官位は正四位下、左近衛中将で、明治15年(1882年)8月7日には正一位を贈られた。『太平記』などの軍記物語にその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド (イルハン朝) (1338年没)
- William II of Athens (1338年没)
- アンナ・フォン・ベーメン (1323-1338) (1338年没)
- トマス・オブ・ブラザートン (初代ノーフォーク伯) (1338年没)
- テオドーロ1世 (モンフェッラート侯) (1338年)