HISTORICAL PERSON · 1331年没

オドリコ

後期中世イタリアの旅行家・フランシスコ会修道士。1318年に東方へ派遣され、インドや東南アジアを経て広東から北京に至り、約3年滞在した。その報告はマンデヴィルの旅行記の重要資料となった。

生涯
1331年没
死亡地
イタリア共和国(ウーディネ県 / ウーディネ)
出生地
イタリア共和国(ポルデノーネ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ウーディネ県)

伝記

ポルデノーネのオドリコは、後期中世イタリアの旅行家であり、フランシスコ修道会の修道士である。俗名はオドリコ・マッティウシ、あるいはマッティウジといい、1286年に現在のフリウーリ地方ポルデノーネに属するヴィッラノーヴァ村で生まれた。先祖はマッティウシというチェコ人だったという。若いころにはフリウーリの州都ウーディネでフランシスコ修道会に入会したとされ、1296年にはバルカン半島、次いで南ロシアのモンゴルへ赴く任務を受けた。

1318年4月、オドリコは東方へ派遣された。パドヴァを発ってヴェネツィア経由でコンスタンティノープルへ向かい、黒海を渡ってトラブゾンに達した。そこからアルメニア、メディア、ペルシアへ進んだが、これらはいずれもフランシスコ修道会が布教拠点を建てていた地である。スルターニヤからカーシャーン、ヤズド、ペルセポリス、シーラーズ、バグダッドなどを経てペルシア湾に達し、アイルランド人の同僚とともにホルムズからインドへ渡って、ボンベイ近郊のターネーに上陸した。

ターネーでは、四人のフランシスコ修道会士が少し前にムスリムの知事の手で殉教させられていた。オドリコはその遺骨が葬られた墓地を訪ね、掘り出して旅に携えていくことにした。その後はセイロン島などを通って北部ケーララのマラバールに達し、そこでトマスの遺骸のある教会を訪れた。さらにジャンク船でスマトラ島、ジャワ島へ渡り、ボルネオ島付近を北上してチャンパーを経たのち、広東に到着した。広東から泉州、福州、杭州、南京、揚州、済寧を経て、北京に至った。泉州にはフランシスコ修道会の修道院が二つあり、オドリコはインドから携えてきた殉教者の遺骨をそこに埋葬した。

北京での滞在は約3年間で、1324年から1327年のことと推定されている。この間、モンテコルヴィーノが建てた教会の一つに関係していたと思われる。モンテコルヴィーノは1328年に世を去った。北京を発ったオドリコは西へ向かい、50日後にプレスター・ジョンの地へ着いたのち、チベットのラサなどを通って、1329年末か1330年初頭にヴェネツィアへ戻った。1330年5月、パヴィアの聖アントニウス教会で、ソラーニヤのグリエルモ修道士が旅の口述をラテン語で筆記した。その後オドリコはアヴィニョンの教皇を訪ねようとしたが、ピサで病気になり、故郷に近いウーディネへ戻って、1331年1月14日にそこで死去した。

死後、修道会は特別な儀式もなく彼を埋葬した。しかし驚くべき旅と死後の奇跡の噂がフリウーリやカルニオーラに広まったため、官職の者や市が公的な葬儀を行うよう指示した。葬儀は再三延期され、最終的にアクイレイアの総大司教や地方の高官たちの前で行われた。地方政府は遺体のために立派な寺院を建て、14世紀の中ごろには聖者かつ旅行家としての名声が遠くまで広まった。旅行記はラテン語、フランス語、イタリア語の写本で多く作られ、73の写本が現存する。1513年にはペーザロで最初の印刷本が出た。墓で多くの奇蹟が見られたことから、教皇ベネディクトゥス14世は1755年に彼を列福し、1881年には出身地ポルデノーネに半身像が作られた。旅行記の価値を認めない人もいるが、オドリコはスマトラ島の正確な名前に言及した最初のヨーロッパ人とされ、マルコ・ポーロが記さなかった中国の纏足にも触れている。その中国とインドの記述は、ジョン・マンデヴィルの旅行記の重要な素材となった。

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