伝記
フランクリン・デラノ・ルーズベルトは1882年、ニューヨーク州ハイドパークの裕福な家庭に生まれた。父ジェームズは鉄道会社の副社長で地主でもあり、母サラはデラノ家の出身であった。14歳で名門グロトン校に進んだが、寄宿舎生活にはなじめなかった。1904年にハーバード大学、1908年にコロンビア大学法科大学院を卒業し、大学では学内紙の編集長も務めた。1905年、遠縁にあたるセオドア・ルーズベルトの姪エレノアと結婚し、六人の子をもうけた。
政界では1910年、ニューヨーク州議会上院議員に当選し、翌年に就任した。州民主党を支配するタマニー派に対抗し、党内で反対派を率いた。上院議員の選出が長く行き詰まると、タマニー派の候補に反対する議員をまとめ、1911年3月のジェームズ・オゴーマン選出に加わった。1913年にはウッドロウ・ウィルソン大統領から海軍次官に任命された。海軍長官のもとで海軍の拡張に取り組み、海軍予備役部隊の設立を進めた。第一次世界大戦中の1918年にはイギリスとフランスを訪れ、海軍施設を視察し、ウィンストン・チャーチルと初めて会った。
1920年、海軍次官を辞して副大統領候補として大統領選挙に出馬したが、ジェームズ・コックスと組んだ民主党は共和党のウォレン・ハーディングに敗れた。政界を離れてニューヨークで弁護士業を始めた後、民主党のアル・スミスを支援し、再び政治活動に関わった。スミスが大統領候補となった1928年には後任として州知事選に出馬し、当選した。知事として社会計画を進め、1930年の選挙でも再選された。1932年の大統領選では救済、回復、改革を掲げ、世界恐慌への対応を訴え、演説の中でニューディールという言葉を使って勝利した。就任前の1933年2月、マイアミで暗殺未遂に遭ったが、本人は無事だった。
1933年3月に大統領に就任すると、翌月からニューディール政策を実施した。テネシー川流域開発公社や民間植林治水隊、公共工事局、社会保障局、連邦住宅局などを設け、大規模な公共事業によって失業者対策を進めた。労働者の団体交渉権を保障し、社会保障を拡充する政策も行った。ラジオを通じた国民との対話を重視した。景気は就任後に回復過程に入り、1936年の選挙では一般投票の約六割を得て再選された。一方、1937年には金融・財政の引き締めを背景に景気が後退し、1933年から1940年まで名目GDPや失業率は1929年の水準に戻らなかった。実質GDPが1929年を上回ったのは1936年、名目GDPは1941年、失業率が1929年を下回ったのは1943年である。最高裁判事の人事への介入、戦時中の日系アメリカ人の強制収容、黒人公民権運動への妨害は、各方面から批判を招いた。
第二次世界大戦への参戦後、戦時経済と軍需生産が急速に拡大し、失業者も減少した。ルーズベルトは連合国の構想を掲げ、戦後の平和を支える国際組織を目指した。その考えは死後、国際連合の成立につながった。大統領在任は1933年3月から1945年4月まで続き、当時のアメリカ大統領として最長であった。1945年4月12日、在任中に没した。
同じ年に亡くなった人物
- アレクセイ・チチバビン (1945年没)
- アウグスチン・マラー (1945年没)
- トーマス・ハント・モーガン (1945年没)
- ドワイト・フィリー・デービス (1945年没)
- ヨハン・ホイジンガ (1945年没)
同じ地域に関係する人物
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- 呉国楨 (1984年没)
- ウォルト・ベラミー (2013年没)
- リック・ルード (1999年没)
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