伝記
トーマス・ハント・モーガンは1866年、ケンタッキー州レキシントンに生まれた遺伝学者である。16歳でケンタッキー州立大学の予備課程に入り、自然史に関心を寄せた。夏には米国地質調査所で働き、1886年に首席で卒業した。マサチューセッツ州アニスクアムの海洋生物学学校で学んだ後、ジョンズ・ホプキンズ大学で動物学を研究し、形態学者ウィリアム・ブルックスのもとで実験に取り組んだ。ウミグモの発生を調べた論文をもとに、1890年に博士号を得た。研究奨学金を使ってジャマイカやバハマ、ヨーロッパを訪れ、調査を続けた。
同じ1890年、ブリンマー大学の准教授となり、生物学部門を率いた。形態学の講義を担当しながら、フジツボ類やホヤ、カエルなどを研究した。生物学の講義は週5日、1日に2回行い、近年の研究成果を授業にも取り入れた。1894年には休暇を得てナポリの研究所で過ごし、発生を実験で調べるドイツの生物学者ハンス・ドリーシュの研究に触れた。胚の発生を実験的に解明する課題に関心を深め、従来の記載中心の研究から実験生物学へと視野を広げた。同年、日本人留学生の津田梅とカエルの卵の分裂について論文を共著した。この論文は、日本人女性が英語で書いた最初の科学論文とされる。
メンデルの遺伝法則が1900年に再発見されると、モーガンはショウジョウバエの形質を調べ始めた。当時、遺伝子は目に見える実体として知られておらず、その存在を疑う研究者もいた。1904年にコロンビア大学の教授となり、同僚や学生と交配実験を進めた。1910年、研究室で白い眼を持つ雄が見つかると、赤い眼の雌との交配を調べた。第一世代はすべて赤眼となり、次の世代では白眼が主に雄に現れた。この結果から、白眼の形質を決める遺伝子がX染色体上にあると説明できることが示された。遺伝形質と特定の染色体を結び付けたこの発見は、染色体説を実験で確かめる重要な証拠となった。
さらに、複数の変異形質を組み合わせた交配によって、同じ染色体上の遺伝子は連鎖して一緒に受け継がれやすい一方、乗換えによって新しい組合せも生じることを明らかにした。こうした結果から、遺伝子が染色体上に並ぶという古典遺伝学の基本図式が形づくられた。1913年には研究室の学生スターティヴァントが主に作業を担い、交配結果から染色体地図を作成した。染色体地図と唾液腺染色体の模様を照合して遺伝子の位置を探る研究も行われた。研究室はハエの部屋と呼ばれた。遺伝子の位置を染色体上で示す手法は、ショウジョウバエを遺伝学の標準的な実験材料とする流れを支えた。コロンビア大学の研究チームは1910年から1925年まで毎夏、ウッズホール海洋生物学研究所へ移って実験を続けた。モーガンは1890年から1942年まで同研究所の独立研究者として活動し、1897年から1945年まで理事を務めた。
染色体説が実証されたことで、遺伝子を染色体に沿って研究する道が開かれ、遺伝学の発展に大きな影響を与えた。モーガンはこの業績により1933年にノーベル生理学・医学賞を受けた。また、1922年にクルーニアン・メダル、1924年にダーウィン・メダル、1939年にコプリ・メダルを受けている。彼の弟子と孫弟子のうち七人が後にノーベル賞を受賞した。研究者として22冊の著書と370本の科学論文を発表し、1945年12月4日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョー・ハント (1945年没)
- オスカール・ディルレヴァンガー (1945年没)
- シャルル・ファブリ (1945年没)
- キリル (プレスラフ公) (1945年没)
- パウル・ダイムラー (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・バルデッサリ (2020年没)
- ポール・コゾフ (1976年没)
- シャーロット・ミノー (1979年没)
- ジェームズ・ギャモン (2010年没)
- アーヴィン・カーシュナー (2010年没)