伝記
ヨハン・ホイジンガは、1872年12月7日にオランダ北東部のフローニンゲンで生まれた歴史家である。父ディルクは生理学の教授で、母ヤコバ・トンケンスは、彼が生まれて2年後に亡くなった。家はメノナイトの牧師を多く出した長い系譜に連なり、そのことが、とくに若いころの著作に表れる宗教性への強い関心につながったという。晩年には、どの宗派にも属さないと述べている。学校で外国語の文法に初めて触れ、当初は、アラビア文学の研究を志したが、財政面の心配から父に認められなかった。1891年にフローニンゲン大学に入り、比較言語学を学んだ。ロマン主義的な気質で、同時代の文化とは対立する関係にあり、資本主義のほか、モンドリアンやカンディンスキーの抽象芸術、映画やラジオも好まなかった。
1897年、古代インド演劇に登場する道化をテーマにした論文「インド演劇におけるヴィデュシャカ」で学位を取得した。サンスクリット文献の研究で名を上げようと考えていたが、指導者ペトルス・ブロクの影響と自らの関心から、歴史へ向かった。学位の取得後は、ハーレムの実科高等学校で1905年まで歴史を教えた。美術史家アンドレ・ヨレスとの親密な友情も、言語学から歴史へ移る決断を支えたが、ヨレスが1933年にドイツの国民社会主義の党に加わると、突然絶交した。1902年にメアリー・ヴィンケンティア・スホーレルと結婚し、1903年から1912年にかけて五人の子をもうけたが、1914年に妻を、1920年には長男を亡くした。1937年にアウグステ・スホルフィンクと再婚した。
1903年にアムステルダム大学の私講師となり、無給の身分でバラモン教や仏教を講じた。1905年に論文「ハーレム市の成立」を発表し、母校のフローニンゲン大学の教授となった。1915年にライデン大学の教授に移り、そこで20年以上教えた。1919年に『中世の秋』を発表した。14世紀から15世紀のブルゴーニュ公国の文化を考察したこの書で、卑猥な言葉も隠し言葉も、貴族文化の成熟の象徴として称えた。1929年に王立科学アカデミーの歴史・文学部門の主席となり、1932年にライデン大学の学長に就任した。1936年に国際連盟の知的協働国際委員会の委員となり、1938年にその副議長を務めた。同年、人間の本質を「遊戯」に見出した『ホモ・ルーデンス』を発表した。
1942年、ナチス・ドイツのオランダ侵攻後、ホイジンガはナチス批判を理由に収容所に収監された。まもなく釈放されたが、以後は事実上の軟禁状態に置かれた。直接の原因は、大学の学長だった彼が、反ユダヤの冊子を書いたドイツ人教授ヨハン・フォン・レールスが国際会議に参加するのを拒んだ「レールス事件」とされる。ライデンを追われ、ヘルデルラント州の小さな村デ・ステーグで同僚の家に住み、オランダ解放の直前の1945年2月1日に逝去した。日本語については、東洋語学者のラーデル教授から得た考察として、中国語と対照的で現代西洋語に酷似していると述べた。エラノス会議を通じて神話学者カール・ケレーニイらとも交流があった。『ホモ・ルーデンス』の遊戯論は、文化を生み出す根源を遊びに見るものとして、広く知られている。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・ボング (1945年没)
- Dora (1945年没)
- エレーヌ・ド・プルタレス (1945年没)
- ヘルマン・フェーゲライン (1945年没)
- Jambyl Jabayev (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- テオファヌ (991年没)
- エドワード・スヒレベークス (2009年没)
- Antonius Colenbrander (1929年没)
- マックス・カール・ヴィルヘルム・ヴェーバー (1937年没)
- アンナ・ヴェーバー=ファン・ボッセ (1942年没)