伝記
ロベルト・ライは、1890年2月15日に生まれ、1945年10月25日に没したドイツの政治家である。国家社会主義ドイツ労働者党の第2代組織全国指導者で、初代のドイツ労働戦線総裁を務めた。
ライン地方で、貧しい農家の11人兄弟の7番目として生まれた。ボン大学やイェーナ大学などで自然科学を学び、食品化学などに興味を持った。第一次世界大戦が勃発すると、すぐに志願兵として砲兵部隊に加わり、東部と西部の両戦線で戦った。航空観測の訓練を受け、1917年に乗機が撃墜されてフランス上空で捕虜となった。このときに頭部を負傷した可能性が指摘され、以後は生涯にわたって吃音や発作に悩まされ、深酒でそれが悪化した。二級鉄十字章と銀の戦傷章を受けている。1920年に釈放されて大学に戻り、論文を発表して博士号を得た。その後は化学会社のIG・ファルベンに勤め、食品化学者として働いた。ルール地方がフランスに占領されたことに憤り、極端な民族主義者となり、ミュンヘン一揆後のヒトラーの裁判での演説を読んで、ナチ党に入った。ヒトラーへの揺るぎない忠誠が、彼の傲慢さや無能、泥酔への苦情をヒトラーに無視させたという。その後、ラインラントの大管区指導者、組織全国指導者を歴任した。
1933年5月2日に全ドイツの労働組合が解散させられると、その資産と組合員を引き継ぐ形で、5月10日にドイツ労働戦線を発足させて、その全国指導者となった。この組織は労働者だけでなく経営者や自由業者も加入する組織だったため、経済・労働政策の主導権をめぐる党と国家の機関の対立に、ライも積極的に飛び込んでいった。1934年10月には、権限を大幅に拡大する総統命令を直接ヒトラーから取り付け、労使関係の独占的な調停者となることを狙った。これは同年1月の国民労働秩序法と矛盾したため、経済相シャハトや労働相ゼルテらの反発を招き、1935年3月のライプツィヒ協定で一定の妥協を見るまで激しく対立した。1938年には、経済・労働関係の他組織の解散や、総裁自身が総統直属となることなどを含む4つの法案を、四カ年計画の全権ゲーリングに持ち込んだが、あまりに法外であり、政府機関やヘス、ヒムラーらから総反対を受けて挫折した。それでも、労働者を第三帝国へ惹きつける試みは、歓喜力行団の運動によって一定の成功を収めた。大型客船によるクルーズ旅行など、それまで労働者には考えられなかった福利厚生活動を行い、「カブト虫」の愛称で有名なフォルクスワーゲン・ビートルの旧型も、元は歓喜力行団の車として開発された労働者用のファミリーカーであった。
終戦間近になると、軍需相シュペーアの後釜を狙うようになった。1945年に国民突撃隊の義勇軍の司令官に任命されたが、ソ連軍が迫ると、4月20日の総統誕生日にヒトラーと最後の会見をして、ベルリンを脱出した。ヒトラーの遺書で、無任所大臣・ドイツ労働戦線総裁に指名された。5月15日にベルヒテスガーデン近くの山小屋で、米軍の第101空挺師団に逮捕された。逮捕後は精神が不安定になり、ニュルンベルク裁判の公判前に、独房内で首を吊って自殺した。遺書には「自分が犯罪者扱いされている事実には耐えられない」と書かれていた。この自殺以後、戦犯たちの自殺防止のための管理が徹底されることとなった。
同じ年に亡くなった人物
- アルフレート・マイヤー (1945年没)
- アルバート・タイラー (1945年没)
- エレーヌ・ド・プルタレス (1945年没)
- ディートリヒ・ボンヘッファー (1945年没)
- ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドリーネ・フォン・バーデン (1904年没)
- エルンスト・フリードリヒ (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公) (1800年没)
- エーリッヒ・ケストナー (1974年没)
- クリード・テイラー (2022年没)
- ヴァルデマール・ホーフェン (1948年没)