伝記
ディートリヒ・ボンヘッファーは、1906年2月4日にブレスラウ(現在のポーランド領ヴロツワフ)で、8人兄弟の6番目として生まれたドイツのルター派の牧師で、20世紀を代表する神学者の一人である。双子の妹ザビーネがいた。父カールは精神科医で神経病理学者、母パウラは神学教授の孫娘で教師だった。富裕な教養市民階層の家庭で育ったが、父が宗教から距離を置いていたため、家族が礼拝に出ることはまれだった。1912年に父がベルリン大学に招かれて一家はベルリンへ移った。1918年4月に次兄ヴァルターが戦死して母が深い悲しみに沈むと、ディートリヒは死と永遠の問題に取り組むようになったと、妹は回想している。家族を驚かせたが、ギムナジウムで神学部入学を前提とする科目を選び、1923年、17歳でアビトゥーアに合格した。
同年にテュービンゲン大学の神学部に入り、翌1924年にベルリン大学に移って、アドルフ・フォン・ハルナックに大きな影響を受けた。独自の弁証法神学を提起していたカール・バルトにも傾倒し、批判的な距離を保ちながらも、バルトは生涯その神学と結びついた。1927年、21歳で学位論文『聖徒の交わり』により神学博士号を得た。1928年から1年間はバルセロナのドイツ人教会で牧師補を務め、1930年に24歳で教授資格を得た。1930年から翌年にかけてはニューヨークのユニオン神学校でラインホルド・ニーバーのもとで学び、ハーレムの黒人教会に触れて、人種差別の問題に目を開かれた。この経験とガンディーの思想が、福音の社会的な側面についての考えを変えた。
1931年に帰国してベルリン大学で講義を行い、同年11月に牧師に任職された。祈りで始まる講義は異例で、次の戦争は神の掟に敵対するものだという発言も、他の講師にはないものだった。1932年には若年失業者のための青年会館を開いた。1933年1月30日にヒトラーが首相に就任すると、まもなくラジオ放送でナチ党の「指導者原理」を批判したが、放送は中断された。教会にも「アーリア条項」が適用されるようになると、9月21日にマルティン・ニーメラーらと牧師緊急同盟を結成し、これが後の告白教会につながった。その後ロンドンのドイツ人教会の牧師となり、1935年に戻って告白教会の非合法の牧師養成所の所長となった。1936年に反ナチ活動のためベルリン大学を解任され、養成所も1937年にゲシュタポに閉鎖された。
1939年6月にニューヨークへ出発したが、1か月後には帰国を決めた。この年、国防軍の将校を中心とする反ヒトラーグループ(黒いオーケストラ)に加わり、精神的支柱となるほか、外国の教会との連絡や、連合国側への情報提供、和平交渉を担った。1943年1月にマリア・フォン・ヴェーデマイヤーと婚約したが、4月5日にユダヤ人の亡命を援助したとして逮捕された。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画が失敗すると、兄クラウスと義兄リューディガー・シュライヒャーも逮捕された。1945年4月、カナリス提督の日記からボンヘッファーの関与が発覚し、4月8日にフロッセンビュルク強制収容所へ移されて死刑判決を受け、翌9日に絞首刑で処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル・ファブリ (1945年没)
- グスタフ・カッセル (1945年没)
- セオドア・ドライサー (1945年没)
- 横山隆志 (1945年没)
- Maryja Mahdaliena Radzivil (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- アドルフ・ワーグナー (政治家) (1944年没)
- フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン (1968年没)
- ルートヴィヒ8世 (バイエルン公) (1445年没)
- ゾフィー・メンター (1918年没)
- フリッツ・バイエルライン (1970年没)